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連載小説 2020年代という過去<6章 疑惑> #6-2 ダム

目次

前話 6章 疑惑 #6-1 それぞれの休暇

 ゴールデンウィーク最終日、両家の訪問を終えて帰った尊と夏美は、さすがに気疲れてしていた。夕食を簡単に済ませると、翌日から再開する勤務に備えて、夏美は早めにベッドに入った。
 尊は、寝室から聞こえる夏美の寝息を確認し、久しぶりに一人の時間ができたと思った。缶ビールを片手に、特に目的も無く仕事のパソコンを開く。ただ、翌日以降の予定の確認や、会議に使う資料を見直すことで、日常に戻ったような気がして落ち着いた。
 ふとチャットグループのメンバ一覧を確認すると、チームの中で一人だけオンラインになっている。京本麗華だった。深夜一時、一瞬だけ躊躇したが、たまらず携帯を取って電話をかけた。
 わずか1コールで麗華は電話に出た。
「はい、もしもし」
「あ、京本さん。すみません、こんな夜中に。チャットでオンラインになっているのが見えたんで、起きてるだろうなと。今お忙しかったですか?」
「いやあ、大丈夫だよ。何かあったの?」
「あ、トラブルとかでは無いんですが、ちょっと話したいことがあって…」
「…うん。あれ、江藤くんは仕事中なの?」
「はい。あ、特に急ぎの仕事があるわけでは無いんですが、何日も仕事から離れてしまったので、明日に向けて資料とか見てると落ち着くっていうか」
「そう。ふふ、わかる。私もそんな感じかな。…話したいことって?」
「あ、あの、この連休中、結構ずっと仕事のことを考えていたんです。この前のトラブルは、テスト項目の漏れに気付けたっていうのもあったんですが、僕にとっては、それよりも仕事に対する考え方が変わったことが大きかったんです」
「どんな風に?」
「僕、あの日、京本さんが来るまで、プロジェクトの成功よりも、周りからどう見られるかっていう体裁の方を気にしてたと思います。僕個人に対する評価が欲しいっていうか。だから、できるだけ人に頼らず一人でやり遂げて、周りからの賞賛を独り占めしたいみたいな欲があって」
「んー、わかる気がする。まあ誰にでもある欲だよ」
「京本さんのことも、器用に周りからの評価を集めている世渡り上手な人だと思っていました。実際、上からも下からも評判のいい人ですし」
「…どうも」
「でもトラブルの日と、その後の5日間の対応を近くで見させてもらって、実は無欲な人だなって思ったんです。ただ淡々とやるべきことをやっていて…評価は勝手についてきた人なんだなって。きっと、早く課長になっているのも、なりたいってアピールしたんじゃなくて、いつの間にか周りに推薦されてたんじゃ無いですか?」
「まあ、そういうところもあるかな。でも私は女性だから、昇進が優遇されるところもあるし」
「京本さんは実力の昇進だって、近い人はわかってますよ」
「…どうも」
「こんなこと言っちゃいけないかもしれないんですけど、僕、トラブルがあってよかったなって思ってるんです。そのおかげで、5日間、京本さんの近くで仕事することができたんで」
「……」
 思わせぶりな尊の言葉に、麗華の心臓が締め付けられるような感覚が走った。麗華も今更になってよりを戻したいわけではない。しかし、尊が続けようとする言葉に小さな期待を抱いてしまったことを自覚し、そんな自分に嫌悪感を覚えた。
「あんな風に、ずっと京本さんと一緒に仕事したことって初めてだったと思うんです。仕事との向き合い方で発見が多かったっていうか、京本さんの近くで過ごせて良かったなって」
「ねぇ、それが今日話したかったこと?」
「あ、それもなんですけど…この連休に入って、仕事から離れて、なんか調子が狂っちゃって…うまく説明できないんですけど、京本さんと働いた5日間の僕に比べると、この連休の5日間くらいの僕は、本物じゃ無くなっていくような感覚があったんですよ」
「休日を楽しめなかったの?」
「逆です。休日に入る前が楽しすぎたのかもしれない。あの、京本さんといると自分が進む方向が見えてくるっていうか…やっぱり、僕には麗華さんみたいな人が近くに必要なのかもって」
「はあ!?」
 急に“麗華”と呼ばれたことで、麗華の中で何かのスイッチを押されたような感覚になった。尊と別れてから一年近くの間、自分でも気づかないうちにコツコツと積み上がっていた我慢の壁が急に崩れ落ちたような気がした。先程までの嫌悪感の矛先が、自分自身から尊に変わった。全身に流れる血液が熱を持ったのを感じた。
「江藤くん、あのさぁ…」
 絞り出した麗華の声は怒りで震えていた。尊はただ思ったことを正直に話しているだけで思わせぶりな自覚は無く、“麗華”と呼んだことも無意識だった。ただ、麗華の声を聞いて、戸惑った。
「はい。あの、あれ、僕何か失礼なこと言いました?」
 麗華は一呼吸おき、感情を殺してゆっくりと応えた。自分でも怖いくらい、いつもより低い声が出た。
「尊、あなたは誰に何言ってるかわかってるの? 別れた相手に言うことじゃ無いでしょ。もう…ほっといてよ」
「あ、いや、あの…」
 尊が何か言いかけたようだが、麗華はそれを聞かずに一方的に電話を切った。

 電話を切った麗華は、そのまま抜け殻のように寝室のベッドに座っていた。いつの間にか流れている涙を拭うこともしなかった。純が眠った後でよかったと思った。視界のピントは合わなかった。ただ悲しかった。尊といい仕事仲間になれると思っていた矢先に、尊の一言で感情を抑えられなくなる自分が悲しかった。
 初めて尊が麗華の家に泊まった日に緊張した尊がグラスを割ってしまったこと、一緒に行った温泉旅行の帰りに3時間の渋滞に捕まってしまったこと、会社の忘年会の後に帰宅の電車に乗ったふりをして二人だけの二次会に行ったこと…蓋をしていた思い出が次々と湧き上がってくるのだった。思い出せば思い出すほど、自分が嫌になった。別れてから尊のことで泣いたことは無かった。今更になって、古いダムが決壊したように涙を流している自分に驚いた。次々とこぼれ落ちていく涙の存在を呆然と頬で感じていた。

 一方、電話を切られた尊は焦っていた。恋人としても、上司としても、今まで麗華は尊に怒ったことは無かった。別れた時も冷静な反応で、殴られる覚悟をしていた尊の方が拍子抜けしたくらいだ。初めて麗華を怒らせてしまったことで、尊もハッとした。電話の会話を思い出し、酔っていたとはいえ、自分が感情に任せて無責任な発言をしていたことに気付いた。
「しまった。どうしよう…」
 頭を抱えて、しばらく部屋の中を行ったり来たり歩く。
 焦りのあまり、隣の寝室から寝息が聞こえなくなっていることに気付かなかった。寝室の夏美は目を覚まし、電話の声を聞いていたのだ。

次話 6章 疑惑 #6-3 主導権を握る女

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