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連載小説 2020年代という過去<6章 疑惑> #6−3 主導権を握る女

目次

前話 6章 疑惑 #6-2 ダム

 2020年5月26日、東京の新型コロナウィルス新規感染者の減少に伴い、2ヶ月近く続いた緊急事態宣言が解除となった。
 麗華の会社もリモートワークを緩和し、週に1日だけ出社をすることになった。麗華のチームメンバーは、週に1日でも同僚と顔を合わせられることを歓迎した。しかし麗華の中では、チームが活性化する喜びと、尊と会わなければならない憂鬱が錯綜した。
 ゴールデンウィーク最終日の電話以来、尊とは複数人で行うメールのやり取りや会議以外ではコミュニケーションをとっていなかった。社内チャットや携帯電話には、尊から“謝りたい“、“話したい“といった内容のメッセージが何件も届いた。着信も週に一件以上は入っていた。
 しかし、麗華はそれを全て無視した。それは怒りではなく恐れによるものだった。攻めではなく、逃げだった。尊と話すことで、どのような感情が溢れてしまうのか自分でも予想ができない不安から、尊のことを考えたくなかったのだ。今はただ、純と平穏な日々を送ることに集中していたかった。

 再開された出社の日、尊には一瞥もくれずに過ごすようにした。会議で尊が発言をする時も、尊に何かを伝える時も、目を合わせないようにしてやり過ごした。麗華にとっては、会社の飲み会が禁止となり、コミュニケーションの機会が減ったことは好都合だった。

**********

 尊は悩んでいた。麗華との距離を縮めたいと思ってかけた電話が、麗華をここまで怒らせることになるとは思っていなかった。電話を切られた直後は、謝って解決できると根拠もなく信じていたが、1ヶ月経っても連絡を無視され、会社では目も合わせてもらえない。業務上で必要最小限のコミュニケーションしかとれなくなっていた。
 しかし、尊としては、このまま有耶無耶にしたくはなかった。上辺だけ取り繕った上司と部下の関係ではなく、お互いのためにわだかまりを解消しておきたかった。

 コロナウィルスの感染再拡大が迫り始めた6月の中頃、尊は休日に麗華のマンションを訪ねた。
 マンションの入り口に着いても、インターホンを押すことが躊躇われ、気持ちを落ち着かせるために一度外に出てマンションのあるブロックを1周した。そしてまたマンションの入り口に着く。これを繰り返し、合わせて三周してしまった。これ以上繰り返すと不審者に間違われそうだと思い、覚悟を決める。ここに来るのはおよそ1年ぶりだったが、ハッキリと記憶していた部屋番号と呼び出しボタンを押した。
“ガチャ”
 呼び出しボタンを押した後、ほんの数秒で繋がった音がした。無視されることも予想していた尊は、思ったよりも早い応答に少し慌てながら話した。
「あ、あの、京本さん。江藤です。江藤尊です。急に来てしまってすみません。どうしてもこの前のことを謝りたくて、どうしてもちゃんと話したいんです。降りてきてもらえないでしょうか。京本さんの都合のいい時間まで待ちますんで」
「……」
 長い沈黙しか返って来ない。
「あの、京本さん? 今日がダメなら他の日でもいいんで、もう無視しないでほしいんです」
 すると、予想外の返答が返ってきた。
「麗華は今、出掛けてます」
「え? え、あなたは?」
「ちょっとそこで待っていてもらえます? 今から降りていくので」
「え? あ、ちょっと…」
 尊は何が起きているかわからなかった。聞き覚えの無い女性の声だった。もし、麗華の友人が留守番をしていたのであれば、なぜわざわざ1階に降りてこようとしているのか。今から、一体誰が何のために、やってくるのか。困惑しながらも待つしかなかった。

「初めまして」
 エレベーターから降りてきたのは、長身でサバサバとした印象の女性だった。マスク越しでも、麗華と同世代ではない若い女性であることがわかる。ジーンズがよく似合っており、健康的な雰囲気である。おっとりとした麗華のイメージとはかけ離れた出立ちで、麗華と親しい友人とは思えなかった。呆気にとられたように立っている尊に、女性はスラスラと説明をした。
「江藤尊さんですね。私は坂下純といいます。ちょっと訳あって、今年から麗華の家に同居していて、あなたのことは大体聞いてました。私、あなたに話したいことが色々あったんで、ちょっとお時間もらえます? あ、ちなみに、麗華は美容院に行ったばかりなのでしばらく帰って来ませんよ」
「え? ああ、はい。…あの、僕のことを聞いてるって具体的にはどういう風に聞いてるんですか?」
「それも踏まえて話しましょう。場所を移動しましょうか」
 純は尊の返事も待たずに、マンションを出て歩き始める。仕方なく尊も後に続いた。

 移動した先はカフェだった。緊急事態宣言は解除されているとはいえ、休日の割に客はまばらで、話をするにはちょうど良さそうな、うるさすぎず、静かすぎない雰囲気だった。純が奥の席を指差した。
「あのあたりに座っててください。珈琲でいいですか?」
「あ、いえいえ。僕が出しますよ。珈琲でいいですか?」
「いえ、私が連れきちゃったんで私が出しますよ」
「そんな、女性に出させるなんてできませんよ」
「……」
純は首を傾げながら、尊の顔を見つめた。その表情は、怒りではなく、本当に疑問に思っているだけのようだった。
「僕何か、変なこと言いました?」
「ああ、いえ。ちょっと理由がよくわからなくて。私は女性ですが、お金も持っていれば、珈琲の買い方もわかっています。男性の方が買いやすい何かがあるんですか? 重いものを持つわけでもないのに…」
「ああ、いえ。そういうわけじゃ」
「…じゃあ、それぞれ自分の分を買いましょうか。それでいいですか?」
「…あ、はい」
 こんなにも早く女性に主導権を握られてしまうのは、尊にとっては初めての経験だった。

次話 6章 疑惑 #6-4 尋問


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