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連載小説 2020年代という過去<6章 疑惑> #6-6 勝負服

目次

前話 6章 疑惑 #6-5 ファッション結婚

 その日、尊と純が公園で語り始める10分ほど前、麗華は近所のカフェで仕事をしていた。家でパソコンと向き合うと集中力が持たないため、一日のうち数時間は近所のカフェで過ごすようにしている。
 窓際の席に座って、メールの処理がひと段落した時、ふと見上げた先に予想しなかった光景を見つけ、麗華は目を疑った。
 尊と純だ。二人が話しながら信号待ちをしている。笑顔で話しているわけではないが、二人の物理的な距離が近い。第三者から見ても、昨日今日知り合ったような関係には見えないだろう。
 面識はないはずの二人が一緒に歩いていることに、麗華は混乱した。もちろん純の行動を全て把握しているわけではないが、まさか尊と会っているとは全くの想定外だ。麗華が尊の連絡を無視し始めてから二ヶ月が経っていた。今でも定期的にメッセージが届く。麗華が無視をしているこの期間に、純は尊と親しくなっていたのだろうか。何か意図があって近付いたのだろうか。二人は今からどこへ行くのだろうか。

 何よりも、麗華の思考をかき乱した最大の要因は、尊が着ている紺色のジャケットだった。それは、麗華と初めて休日に出かけた日に、尊が来ていたジャケットだった。
 その日、二人で水族館に出掛け、柄にもなく麗華は浮かれていた。イルカショーで前の方の席に座ろうと、指をさしながら緊張気味の尊の腕を引っ張ったとき、尊が少し困ったような顔をした。
「どうしたの?」
「いや。あの、ちょっと言いづらいんだけど、前に座ると水被っちゃいそうだから。このジャケットを濡らしたくなくて…」
 イギリスに旅行した際に買ったもので、彼が滅多に着ない勝負服だと知った。麗華との外出に勝負服を着てきたこということ、それを恥ずかしそうに話す尊のいじらしさが、麗華は嬉しかった。
 その後、麗華がそのジャケットを見たのはたったの二回。麗華の誕生日と温泉旅行に行った時だ。それなのに、何故その勝負服を、純と並ぶ尊が着ているのか。
 そして、純を見つめる尊の目が、麗華と付き合い始めた頃の目と同じように見えた。一緒の時間を過ごせることの喜びを噛み締め、麗華の一瞬一瞬の行動を見逃さないように見つめ続けた尊の視線だ。その視線が今、麗華の目の前で純に向けられている。
 二人はどういった関係なのか、二人が自分に言えないような関係なのではないかと、良くない想像が駆け巡る。麗華は心臓の鼓動が止まってしまいそうな錯覚を感じながら、視界から通り過ぎていく二人を、黙って見つめることしかできなかった。

**********

「ただいま」
「あー、おかえり」
 帰ってきた純を、麗華は自然に迎えるように意識した。
 その後、一緒に夕食を取っている間、いつも通りたわいもない話をした。頭の中では数時間前に見た尊と純が一緒に歩くシーンを何度も思い出しながらも、麗華は純に何も聞かなかった。二人でどこに行っていたのか、何を話していたのか、聞きたくて仕方なかったが、冷静に聞き出せる自信が無かったのだ。麗華は動揺してしまっている自分自身に腹が立ち、自分の感情を受け入れられないでいた。

 夜、麗華がベッドに入ろうとした時、携帯に尊からメッセージが届いた。
“話がしたいです。少しでいいので会えませんか?”
 今まで、何度も届いていたメッセージを、麗華は全て無視していた。今回も無視しようと携帯を一度テーブルに置いたが、昼間に見てしまった光景がよぎり、再び携帯を手に取る。そして、できるだけ感情を殺して事務的な文章で返信をした。
“わかりました。明日、仕事が終わったら会いましょう”

**********

 麗華は待ち合わせ場所にしたホテルのカフェにわざと15分遅れて行った。緊張して待つ尊へのささやかな嫌がらせである。尊より先に到着して待たされる側になりたくないというプライドもあった。
 カフェに入ると、携帯電話を触ることもせず、姿勢良く座っている尊の後ろ姿が見えた。付き合っていた頃は、待ち合わせ場所で見つけると麗華の心が弾んだ後ろ姿だ。アイスコーヒーはもう半分以上飲んでしまっているようだ。昨日のジャケットは着ていないことに、今更ながら麗華は小さなショックを受け、念入りに化粧直しをした自分が恥ずかしくなった。

 小さく深呼吸をして背筋を伸ばし、尊の背後から近付いた。
「お待たせしました」
 そう言って、目を合わせずに、尊の向かいの席に静かに座る。すかさず水を持ってきたウェイターに珈琲を注文した。
 しばらく沈黙が続いた後、尊が麗華の様子を伺うように雑談から切り出した。
「だいぶ暑くなってきましたよね。今年はコロナで、春を満喫できないまま夏が来ちゃいましたよ。麗華さんは休日出掛けたりしてます?」
 相変わらず麗華は目を合わせずに無表情で黙りこんだままだ。職場では朗らかによく笑うようにしているため、たまに無表情で座っていると怖がられることを麗華自身も自覚しており、わざと表情を崩さないようにしていた。
「…麗華さん?」
 尊が怯みながら、小さな呼びかけと同時に麗華の顔を覗き込む。そこに麗華の珈琲が届く。珈琲を一口飲んで、麗華が口を開いた。
「休日ね、出掛けてるよ。純と一緒にね」
 それを聞いて尊の瞼がピクリと動く。麗華は続けた。
「隠さなくてもいいよ。知り合いなんでしょ? 純と」
「…純ちゃんに聞いたんですか?」
 “純ちゃん”と親しげに呼んでいることに、若干の苛立ちを感じながら、麗華は探りを続ける。
「どうだろう。純が私に話したと思う?」
 尊は、思わぬ方向に話題が進んだことに困惑しながらも少し考えて答えた
「いえ、純ちゃんは少なくとも自分からは話さないはずです。彼女は麗華さんに黙って僕に説教をするために会ってくれていたので」
「は? 説教?」
「あ、あの…」
 尊は膝を揃えて、体を麗華の方に向け直した。
「今日話したかったのは、麗華さんに改めて謝りたいんです。僕は、ひどい別れ方をしてしまった。別れた時も、この前の電話も、僕は自分を守ることばかり考えてしまっていたと思うんです」
 麗華は驚かなかった。謝られることは想定の範囲だ。
「今更、何なの? 純に怒られたってこと? 純に言われたから謝るってこと? そこにあなたの意思があるのかわからないんだけど」
「…僕の意思です。純ちゃんには謝れと言われたわけではなくて、ただ、僕の考えの甘さを渾々と説明されたという感じです。謝ろうと思ったのは僕の意思です」
 麗華は眉をしかめながらも、自分でも驚くほど冷静だった。
「謝ってどうしたいの? あなたがすっきりと罪悪感から逃れたいだけじゃないの? だいたい何を悪いと思っているのか伝わってこないし。純が何て言ったのかわからないけど、私は純にあなたを憎んでるなんて言ってないよ。実際、別に憎んでるわけでもないし」
 敢えて“尊”でも“江藤くん“でもなく、“あなた“と呼んだのは、尊に対する細(ささ)やかな拒絶の意思表明だった。
「麗華さんは優しいから、僕を憎んだり怒ったりしなかったんですよね。僕はそれをわかったうえで、それに甘える別れ方をしてしまいました。麗華さんに本音を話せないようにしてしまった」
「本音…?」
 麗華は尊の意図がわからなかった。麗華の本音とは何のことを指しているのか、なぜ本音を話せていないと思ったのか、この会話がどのように展開することを期待しているのか、ピンとこないのだ。ただ、自分の中に、自分自身でも説明できないモヤモヤとした影が一瞬見えたような気がした。これが自分自身で無意識に閉じ込めてしまっている“本音”なのだろうか。それは、今この場で開きたくないパンドラの箱のように感じ、冷静な態度のまま尊を拒絶することにした。
「勝手なこと言わないでよ。私の本音があなたにわかるとでも言うの? わざわざ呼び出して、いったい私にどうして欲しいわけ? ここで私が恨み辛みを語って泣き崩れれば満足?」
「あ、いえ、違います。ごめんなさい。そういうつもりでは無くて…ごめんなさい」
 麗華は大きくため息をついた。
「…あなたの本音はどうなの?」
「え、僕ですか?」
「そう。今のあなたの本音。好きなんでしょ? 純が」
「え…いや、まさか」
 尊はハッとしたように麗華と目を合わせたまま硬直してしまった。麗華は呆れたように続ける。
「昨日二人で歩いてるのを見たんだよ。自覚してなかったのかもしれないけど、見ればわかるよ。自分がどんな目で純を見つめていたかわかってないでしょ? 好きな人と一緒にいるって顔してた。私にはわかる。私だからわかる。それに、一体どんな気持ちであのジャケットを選んだの?」
「……」
 尊は驚いて声を出せなかった。昨日出かける際、ジャケットを羽織りながら、無意識に心を弾ませてしまっていたことを思い出した。あのジャケットを選び、念入りに髪をセットし、たまにしか使わない香水をつけた理由を、自分でもうまく説明できなかった。
 尊の呼吸が速くなっていることに、麗華は気付いた。
「くだらない。自分の本音も説明できないような人に、偉そうなこと言われたくない」
 麗華は伝票を手に取り立ち上がった。尊は慌てて伝票を掴もうと手を伸ばしながら、かすれた声で言った。
「あ、僕が払います」
 麗華は尊の手が届かないように、伝票を持つ手を自分に引き寄せ、尊を見下しながら応えた。
「あなたなんかに、奢られたくないの」
 麗華はそのまま方向を変えてカフェの出口に向かい会計を済ませた。振り返らずに足早にホテルを出る。
 ホテルを出てからは、いつもより強くピンヒールを鳴らしながら駅までの道を歩き始めたが、それは1分と続かなかった。段々とスピードを緩めて立ち止まり、その後はとぼとぼと遠回りしながら帰った。

次話 7章 告白 #7 -1 尊から

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