3ミー

文章を書くのが子どもの頃から好きです。とりあえず、100編。

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    あ、すみません。何でもないです。

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    懐かしい、個人的な思い出たち。

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    バンドを組んできた思い出とこれから

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    2019年から始めた庭作り

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kenjamind:beertles

最近、ベースの練習をちまちましている。というのも、kenjamindというバンドにベースで参加できることになったのだ! 自分の楽器遍歴を振り返ると、布袋さんへの憧れ(当時は“愛”と言っても良いくらいであった)からギターを手にしたが、バンドの中でギタリストとして活躍できることはなかった。完全に自分の努力、練習不足が要因であった。20歳の頃に組んだバンドでは何故かドラムを担当した。ドラムの魅力も相当なものだったが就職すると離れてしまった。 初めてベースを入手したのは24歳になる年

    • 私とBUCK-TICK

      櫻井さんの訃報を知って以来、ずっとBUCK-TICKのことを考えている。何せ人生を共にしてきたバンドだ。BUCK-TICKから思い出したり、思い出からBUCK-TICKに繋がったり…。 何度も書くが、八尾に住んでいた4歳くらいから、岡山の田舎に年に一回は帰っていた。片道4時間以上の道程でヘビロテされていたのはBOØWY、夢工場、そしてBUCK-TICKなどだった。ハリアップモードやセブンスヘブン、タブー、悪の華など、アルバムとして意識して聴いていたわけではないけど、「曲名は知

      • 中トロ②

        まっさんにこれまでのMTRの中身を曝け出している時に中トロの活動を思い出してきた。中トロの誕生は高校時代だが、本格化したのは大学時代だった。 当時、BUCK-TICKへの扉を開き始めたこともあり、中トロではBUCK-TICKをコピーしようと言うことになった。中トロの活動を一言で言うと「まっさんがBUCK-TICKのオケを耳コピで全パートを1週間程度で作成し、3ミーが歌う」というものだった。今なら暴動モノだし、報酬がない分、「王様より上(たかし談)」という待遇だった。 アルバム

        • 今、思いつくこと

          90年代最初の八尾にはバンドブームが溢れていた、ように思う。道行く人、チャリ行く人がギターを抱え、西武百貨店あたりを彷徨く。今と違って新譜が出ればバンドスコアが必ず出版されていた。 今から考えると悪の華、ハリアップモードが近い間隔で発売され、BUCK-TICKの数年間での進化を目の当たりにしていた頃だ。そこから狂った太陽、殺シノ調ベ、そしてdarker than darkness…、小学校低学年だった僕には理解しがたいものもあったけど、BOØWYとともに僕の音楽生活の初期から

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        kenjamind:beertles

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        記事

          中トロ

          7月の某日、マッサン家にMTRを持参した。この15年ほど撮り溜めたコピーオンリーの音源である。 一曲目はMTR内蔵のエフェクターのみで作成したBOØWYの「give it to me」だ。聞いている内にそもそも自分が何故MTRを買って宅録を始めたのか、思い出してきた。 ドラムを担当したシコーズが一区切りとなった05年からマッサンとトリビュート作成に入った。マッサンから「トリビュートなんやから何かしら演奏しないと」と言われ、その気になったのは良かったのだが、ペースは絶望的なもの

          僕のお祖母ちゃん

          僕はお祖母ちゃん子として、育った。両親が共働きだったため、保育所に預けられている以外の時間はいつも一緒だった。八尾の合同宿舎の裏庭でビワの実を取ったり、近くの少年グラウンドで、トスバッティングするためにソフトボールをトスしてくれたり、思い出は尽きない。保育所の迎えも戦隊物が観たいがために「金曜日は早く迎えに来て」とせがむ僕にお祖母ちゃんは快く応じてくれた。夏休みは特にずっと一緒にいた。75歳の時に僕が捨て犬を拾ってきた時も、一緒に可愛がり、散歩も手伝ってくれた。75歳から始め

          僕のお祖母ちゃん

          誕生日前後

          今年は40歳になる誕生日であった。その数字は重い。40歳位の親父をはっきり覚えてるからかも知れない。親父は1952年生まれだから92年〜93年くらいが今の僕と同い年だったわけだ。当時、僕らは八尾の公務員宿舎に住んでいて、まさに初の持ち家を購入する直前の頃だ。子どもは3人で一番上は高校三年生だ。今の自分の境遇と全く違う。それだけその頃は土地や家が今よりも高級品だったのだろう。 さて、今年は誕生日の前日にBUCK-TICKのライブに行ける。BUCK-TICKファンになって長いが、

          誕生日前後

          kenjamind-beertles練習中

          kenjamind、2度目の招集に備え練習中である。 練習用にスポティファイでリストを作って驚いたのが、すでに練習曲が20曲もあることだ。あと浮気娘ってやるって言ってたっけ? 浮気娘は一度、カンピロバクターでやったことがある。僕はボーカルだったが…(頬を染める)。ゆーきが「ベースがいちいち変化するからめんどい」と言ってたような。ま、まだ先になりそうだし、良いか。 ポールのベースは本当に歌うという表現がぴったりで、曲の抑揚に合わせたベースラインはパワーを感じる。ノーリプライな

          kenjamind-beertles練習中

          kenjamind-beertles②

          というわけで行ってまいりました、kenjamind-beertles in スタジオシグナス。 いきなりの雨とやたら段差がある駐車場で「これ、やっちゃうんじゃないか」という不安からのスタートであった。 駐車して入口を見ると、いそいそとスタジオに入る人が見えた。「あ、ズミオさんだ」。 僕も続けと2階に。ズミオさんは2回目なので、あまり恐くはない。 まっさんがいない。というか来ない。続いて知らないおじさん2人が入ってきた。軽くパニクる中、自己紹介となった。このバンドはまっさんが人

          kenjamind-beertles②

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          23年春の庭

          23年春の庭

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          93年

          30年以上前になってくると、「この記憶は何歳の時だったか」というのが曖昧になってくる。こういう時は周りの情景に紐付けるとだんだんハッキリしてくる。93年、僕はもうすぐ生まれ育った八尾に別れを告げることも知らずにのほほんと過ごしていた。 特に92年、阪神が優勝争いしたこともあり、僕はすっかり野球少年になっていた(ソフトボールだけど)。何せ弱かったタイガースが若手中心のチームで優勝争いしたのである。亀山、新庄、久慈…。エース候補の野田を放出してまで、両打ちの強打者、松永浩美を獲得

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          京都行ってきた3日目(写真編)

          京都行ってきた3日目(写真編)

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          京都、行ってきた。初日編

          9月の連休を珍しく活用して、京都行ってきた。しかも2泊。ファミリーでは日帰りの三重旅行しかしたことがないため、一同楽しみにしていた。台風が近付いているのが若干気になっていたが、とりあえず京都に向かったのだった。 京都駅に着いた時、早くも雨がパラついていたがホテルまで一駅の距離を歩くことにした。梅小路ポーテルまでの道のりを息子はずっと走っていた。というのもポーテルの近くにある鉄道博物館にずっとずっと行きたかったのだ。 博物館が近付くにつれ、電車を型どったモニュメントが増えてきて

          京都、行ってきた。初日編

          03年

          大学一年生の冬あたりから「あ、大学の中に居場所がない」と思い始めていた。当時を思い起こすと、生駒付近で始めたバイト探しに失敗し大学に使う沿線の反対方向である王寺駅の中條文具店で働いていた。大学の1限目が10時30分に終わるので、早歩きで長瀬まで歩いて12時前に王寺駅に着く。17時のバイトまでサイゼリヤでまっさんとダベる、ダベる、とにかくダベる。恋愛、思い出、音楽、映画、話は尽きなかった。 まっさんがBUCK-TICKの話題をし始めたのもこの頃だったか。「TSUTAYAに行った

          思い出し笑い要員

          オードリーのオールナイトニッポンを聴いてると若林さんが校長先生の朝礼を話をしていた。若林さんは「何一つ覚えていない」と言っていた。自分の胸に聞いてみると、一つ鮮明に思い出した。 小学校の校長先生は白髪のおじさんで、もちろん朝礼の話もご多分に漏れず、そんなに面白くはなかった。ボーッと聞いていて、僕は法則があることに気づいた。校長先生は一節話し終えると「えー」だの「あー」だの、時には「おー」だの言うのだが、それが直前に話し終えた語尾の母音を伸ばしていることに気づいたのだ。つまり

          思い出し笑い要員

          she is NO.30

          20年近く前、僕は成人式に参加していた。19歳の時に生駒の方に引っ越していたが、小中高を過ごした北葛城郡の成人式に向かったのだ。会場の最寄り駅まで向かい、ゆーきがバイクの後ろに乗せて連れて行ってくれた。 会場にはファルコンと呼ばれていた小6の時の担任も来てくれていた。 そこでは懐かしい再会が多かったものの、強烈な出会いもあった。しばらく、彼女のことが頭から離れなかった。僕は恋に落ちたのだった。この曲はそんな時に出来たもので、ガラケーの作曲機能で作ったことを覚えている。タイトル

          she is NO.30