見出し画像

2023/04/25: 目を澄ませる(映画のこと、本のこと)

「心の眼でみる」とはいっても「心の耳できく」とはいわない。まして「心の手で触る」「心の鼻で嗅ぐ」「心の舌で味わう」と言い表すことはまずない。「恋は盲目」であって「恋は聾(ろう)」ではない。なぜだろうか。なぜ、その他の感覚器官ではなく〈眼〉が選ばれているのだろうか。

2022年公開された『ケイコ』という映画には「目を澄ませて」という不思議な副題が添えられている。ゴングの音もセコンドの指示もレフリーの声も声援も聴こえない聴覚障害のボクサー、ケイコ(岸井ゆきの)の毎日を描く。言葉にすればするだけ、『ケイコ』のケイコ性からは遠ざかってゆく気がするから、感想、分析等を書くのとは別のしかたで、『ケイコ』のことを記憶しておきたい。

その日は放課後、急いで新宿までいって、お友達がTwitterで推していた『ケイコ』を観た。映画館の前には花園神社があった。あと50年ほど昔にタイムスリップできさえすれば、唐十郎、(いわゆるアングラ) 状況劇場の『腰巻お仙 -義理人情いろはにほへと篇』が体験できた(はずだった)。

映画が終わって新宿駅まで歩いた。いつもならBluetoothのイヤホンをしてなにか聴きながら歩く。〈お気に入り〉のプレイリストをただシャッフル再生しているおかげで(せいで)、曲調と風景が時々チグハグになる。それを楽しめる余裕がある時はいいが、たいていそんな余裕はなくて、何度かスキップして適当な曲が流れるのを待つ。そうでないと、新宿の風景を目の前にして奥村チヨが流れたり(まあいいか)、ショッピングモールを歩きながら野坂昭如が流れたり(まあいいか)してしまう。

『ケイコ』を観終わって駅まで歩くあいだ、イヤホンをすることをしないでみようと、ふと思い立った。もちろんそれは『ケイコ』を観たからだ。街の音に「耳を澄ませて」みたくなった。場所は新宿、とてもノイジーで、『ケイコ』に流れていた澄んだ音(リズミカルなパンチの音、夜の電車の音、ジャージの袖が擦れる音…)とは比べようもない。でも、ケイコはこの音さえ聴くことが出来ない。(のか?ほんとうに?)

『ケイコ』は、いわゆる「弱いひとが頑張っている映画」ではない。ケイコは(ケイコの弟は「僕はお姉ちゃんみたいに強くない」という)じぶんを「よわい」と称する。でも、それは社会が差し向ける「弱い」とはまったくちがうものであることをケイコは知っている。ケイコがボクシングのなかで感じている「よわい」は、後者の「よわい」だと思う。耳が聞こえないことの「弱い」ではない。

『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫)のなかで、著者・真木悠介は「群盲象を評す(盲人が象をなでる)」というインド発祥の寓話に、新たな(しかしより説得力のある)解釈を付け加える。

7人の盲人がそれぞれ象に触れて、7人それぞれが違った「象の像」を報告する。ある者は尻尾に触り「ヘビのような象(の像)」を、脚に触れたある者は「柱のような象(の像)」を報告する。目の見えるものは盲人の「象の像」を笑い、自分たちは「ほんとうの象」を「しっている」と思う。しかし、と真木は疑問を呈す。

しかしわれわれのほとんどがそうであるように、ゾウを動物園などで見たことはあるがさわったことは一度もないという人びとが、見たことはないが、さわったことのある人びとよりも、ゾウを「知っている」といえるか。ゾウの肌ざわり、ゾウのぬくもり、ゾウの呼吸の強さ、ゾウの毛のはえ具合について、われわれはゾウにさわったメクラたちより知ることがうすいであろう。われわれのゾウ像もまた、八つ目のゾウ像にすぎない。メクラたちの世界がそれぞれカッコに入った「世界」であるように、われわれの世界もまたカッコに入っている。

『定本 真木悠介著作者I 気流の鳴る音』p86 

有名な、フーコーによる権力分析でお馴染みのパノプティコンは、視覚という知覚の非対称性によって成立している。「見られている(かもしれない)」という感覚は、視覚の一方的な在り方(眺める)が可能にする。しかし、たとえば触覚は、触る=触られる関係であるために、近いこと故の不自由さ、危険に見舞われる可能性もある。500m先の人間を見ることが出来ても、100m先の会話を聞き取ることは難しい。私たちが「見ること」「見られること」に必要以上に拘るのには、明白な、進化上の理由があるだろう。

しかし、それゆえに真木の問いかけは、(非-盲人によって絶対的・客観的に固定された)「八つ目のゾウ像」以外のゾウをほんとうに知るとは何かという、旋回した問いの前に読者を立たせる。

ケイコは聴こえない。のだろうか。ほんとうに?否、うらがえして問いかけるべきである。わたしたちは聴こえる。ほんとうに?と。

いいなと思ったら応援しよう!