蕎麦屋にて 【小話・1898字】
何がどうというわけでもなく、行き先を考えずに歩いていたら迷子になった。暗い夜道、小さな店の灯りに目が留まった。店の中の様子は外から見えない。それが何となく入りづらい雰囲気。そんな一見客の気持ちを先読みするように、小さなランプの下にお品書きが出されていた。
穴子天せいろ・そば、一四〇〇円
天せいろ・そば、一八九〇円
親子とじそば・せいろ、一〇八〇円
生姜卵とじそば、一〇八〇円
鶏南・鶏せいろ、一〇八〇円
鴨せいろ、鴨南、一四二〇円
そういえば、まだ夕飯を食べていない。空腹に気が付いて、ちょっと高いなと思いつつも店に入った。
小ぢんまりとした店内。外観同様、内装も質素なのだが、作り手のこだわりが感じ取れる雰囲気。何というか、こだわっていないように見えるようにこだわっているといったほうが近いかもしれない。一番奥の席に、四、五十代ぐらいのサラリーマン風情の男が二人。お客はそれだけ。私は一番手前の席についた。
花番が一人、厨房に主人が一人、いずれも女性。花番さんが蕎麦茶とおしぼりを持ってきてくれた。品数がそれなりにある。板わさ、だし巻き卵、豚の角煮、焼き魚。私はお品書きを隅から隅までじっくり見て、生ビールと野菜天ぷら蕎麦を注文した。しめて一九七〇円也。
「蕎麦は、温かいのと冷たいのと、どちらにしますか」
「冷たいので」
すぐに生ビールが運ばれてきた。上品なグラス。すこし大人な雰囲気。つまり、足りない。五〇〇円の生ビールをちびちび飲む。
天ぷらが来た。揚げたてサクサクでおいしい。スーパーの天ぷらに慣れている私にしてみれば、揚げ物とは思えないほどさっぱりしている。きっと、いい油を使っているのだろう。少し遅れて蕎麦が供される。十割。手打ち。
「おねえさん、おねえさん」
奥の席の男が花番さんに声を掛けた。時刻は九時を過ぎている。こちらから見える男の顔は、かなり赤い。盗み見る。誰かに似ている気がする。
「はあい」
花番さんが男の横へ立つ。
「この、鴨抜きって何ですのん?」
男がお品書きを指差しながら、花番さんに問うた。
「鴨抜きは、鴨南蛮そばの汁だけのものです」
「あ、そうなんや。鴨南蛮そばの汁だけなんや。そしたら、〈鴨抜き〉やのうて、〈そば抜き〉ちゃいますのん?」
「ああ、そうですね」
「〈そば抜き〉もしくは〈鴨だけ〉ですやん」
「はい」
「なんで〈鴨抜き〉になりましたん?」
もう一人の男が間に入る。
「ごめんねえ、からんじゃって」
「いえいえ」
花番さんは明るくからからと笑っている。狭い店だから、私にもその会話が丸聞こえだった。お腹がぽよんと出た男のおとぼけに、なにかがやわらぐのを感じた。人のいい、あの人を思い出させる。確かに、なんで〈鴨抜き〉なのだろうなと思いつつ、私は蕎麦をすする。
「じゃあ僕は、天せいろ2枚」
「僕も同じものを」
「はあい。天せいろ2枚、おふたつですね」
〈鴨抜き〉が気になった。スマホで検索してみると、「鴨抜きで蕎麦前が粋」というのがヒット。
〈鴨抜き〉は花番さんが説明したとおり、鴨南蛮そばの汁だけのことで、〈蕎麦前〉とは蕎麦屋で酒を飲むこととある。ほかにも〈天抜き〉というのがあって、それは天ぷらそばの天ぷらだけの意。江戸言葉なのだそうだ。あれこれ見ていたら、スマホの充電が切れた。
しゃれているんだか、ひねくれているんだか。
ややこしい。どちらがどちらだか分からなくなる。寿司屋でシャリを抜いてくれと頼む勇気はないが、〈シャリ抜き〉といえばタネだけだろうし、ラーメン屋で〈麺抜き〉といえば、ラーメンスープだけだろう。メビウスの輪の上を歩いているような気分。表街道を歩いていたはずが裏街道になっている。東へ向かっていたはずが西へ出るどころか南を向いて、しまいには自分がどこへ向かっているのか分からなくなる。声東撃西、それとも偸梁換柱か。ふと思う。ただ、説明できない理由を説明してほしいだけなのに。
今宵は蕎麦前。板わさ、天抜き、ぽんしゅをチビッとひっかけやんす。わっちの心はところてん。出しちまったら戻らない。ちょいと兄さん、付き合いなよ。明日になったら別の道。秋の空のよな、わっちの心。おいやぢゃなけりゃあ、今夜、一杯、どうかいね。あ、こりゃこりゃこりゃこりゃ。なぜに届かぬわが想い~ ♪ っと。なんてな。
私は会計を済ませ、店を出た。外は闇だ。目が慣れるまでしばし待つ。暗闇から少しずつ景色がよみがえってくる。街の輪郭を把握し始めると同時に、私は、はっとなった。そのとき、全てを解した。そうだ、そうだった。私は店の中へ慌てて戻った。男たちはまだ蕎麦をすすっていた。私は意を決して聞く。
「すみません、ここはどこですか?」
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