田中頼三再考 第二回 田中頼三の序列の変遷
前回は田中頼三の経歴を、他の水雷戦隊司令官となった同期と比較をした。
今回は、田中の海軍兵学校卒業後以降の海軍内部での序列の変遷を見ていく。
海軍では「ハンモックナンバー」いう序列があった。これは海軍兵学校卒業時の成績に基づく席次のことを指すもので、卒業後は海兵同期間の先任順位の目安とされていた。
この「ハンモックナンバー」は、海軍兵学校卒業後の海軍将校たちの将来を確定してしまうものと思われがちである。確かに、海軍兵学校を優秀な成績で卒業し、卒業証書授与式時に短剣一振りを授与された者たちはほとんどの場合そうであった(註1)が、それ以外の者たちは兵学校卒業後も技術取得状況や勤務査定により同期間の序列変化があったようだ。これは同期間だけでなく先輩や後輩の者たちとの間でも同様で、佐官級になると各期入り乱れていた。各将校がどのような査定をされていたのかを示す具体的な資料は残っていないが、その査定による評価状況はある程度知ることが出来る。その資料の1つが、「現役海軍士官名簿」と呼ばれる資料である。
この「現役海軍士官名簿」は在籍している現役海軍士官の階級、現職、勲位、年齢等が記載されており、1年に1回、定期的に調製発行されている。名簿の記載順は各兵科ごとに、階級の高い者から順となっていた。
この名簿記載事項の最下段に「電報符」という項目がある。この「電報符」は数字であり、各人に1つずつ割り振られているが、この数字は個人に対して数字が固定されているわけではなく、名簿記載順に1から毎年数字が割り振られていた。例えば、田中頼三の場合だと、大正2年の「電報符」は「1807」であるが、階級の上がっている昭和12年には「313」となっている。
階級の上から順に番号を振られているわけであるから当然ではあるが、これを詳細に見ていくと興味深いことに気がつく。それは、同期間だけでなく他の期の者との間でも、この「電報符」の順番が抜きつ抜かれつしている。(註2)
資料1-1から4の各年を見ていくと、卒業後にも序列の変化があることがわかるであろう。
「海軍兵学校沿革」(註3)によると、田中の卒業時(1913年、大正2年)の「ハンモックナンバー」は34位だった。それが大正10年には19位にまで上げているが、それ以降はほぼ順位は固定されている。資料2は「現役海軍士官名簿」の電報符番号順が海軍内部の序列と仮定し、各年度の海兵41期内に限定して第34位までの序列を整理したものである。
資料2に記載されている者たちのうち、田中と同じ高等水雷出身者は中原義正、一瀬信一、山崎重暉、大森仙太郎、柿本権一郎、原鼎三、橋本信太郎、道野清、高間完、星野応韶、黒瀬浩、岩瀬正巳である。これらの者のうち駆逐関係の勤務経験があるのは、大森仙太郎、橋本信太郎、高間完であり、他は潜水や司令部参謀、水路や補給、技術方面の経験者であった。
大東亜戦争開戦時の水雷戦隊司令官は、第一水雷戦隊が大森仙太郎、第二水雷戦隊が田中、第三水雷戦隊が橋本信太郎であったが、本来田中は駆逐関係の経験が大森や橋本と比べて少ないにもかかわらず水雷戦隊司令官になれたことは不思議である。推測にはなるが、水雷系で田中や橋本より序列が上の者で、駆逐関係以外の経験が豊富にあり水雷戦隊司令官に適するものがいなかったからかもしれない。かくいう田中も、第二水雷戦隊司令官就任前に約4ヶ月潜水戦隊司令官を経験しているが、すぐに第二水雷戦隊司令官に就任している。もしかしたら、他に水雷戦隊司令官に適する人材がいなかったのかもしれない。
以上、田中の序列の変遷を見てきたが、田中が第二水雷戦隊司令官に就任したのは彼が駆逐系経験が豊富であったからではなく、単純に海軍内部の序列によるものと考えられるであろう。
註1 例えば、海兵41期の場合、卒業時に優秀な成績と認めらた小西干比古、中島省三郎、前田稔、中原義正のうち上位三名は常に同期の中ではトップ3を維持していた。しかし、中原義正は自身より下位のだった者に抜かれている。海軍兵学校卒業時の成績が生涯にわたって固定、保証されるわけではないが、ある程度他の者より優位にあったと推測される。
註2 インターネットで公開されている国立国会図書館デジタルコレクションでは海兵41期卒業年の大正2年時現役海軍士官名簿はないが、官報等に記載された他の期の卒業した者たちの記載順は海軍少尉候補生任命時の名簿記載順、現役海軍士官名簿記載順と同じであることから、海兵41期も同じように記載されていたものと思われる。
註3 原書房「海軍兵学校沿革」昭和53年(大正8年の復刻)
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