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写真と傷の関係性.

仕事でPCを使っていると容量があっという間にいっぱいになる。
どうしようもなくなって、いらないファイルを逃すために、
以前使っていたHDDを繋いでみる。


5年前、まだ写真が何かも分からずに手当たり次第にシャッターを切っていたあの日の思い出が
何も整理されずただデフォルトで設定された名前のフォルダに入れられていた。

おそらくSDカードがいっぱいになって、整理するまもないまま、
そのまままるっとコピーしたのだろう。

今の自分なら、「ちゃんとレーティングして管理しなさい。」と一喝する。こんな杜撰な管理では、すぐにHDDがいっぱいになってしまうし、
本当に取り出したいファイルが見当たらないから、と。

しかし一方でこの何も整理されていない状況こそが、当時の
自分がどのように考えてシャッターを切っていたかの軌跡を辿ることができる。

もし、膨大にある写真たちを冷静な眼差しでふるいにかけたなら、お利口な写真以外は存在しなかったものとしてなんの躊躇もなくゴミ箱に入れられるだろう。

これがフィルム時代、現像もままならない時代だとしたら、同じようなことができただろうか。

何もインターネットに貼って"映える"写真は一枚もないが、確かにその写真たちは僕の頭の中で描いた画を、表現するための必死の営みが現れていた。

そして、不思議なことにそれは他の何にも勝って記憶と結びつき、
その写真を見た瞬間に誰とどこで、どのような気温で、どのような色で、なんの話をしていたかまで鮮明に思い出されたのだった。

5年。その月日がこのなんでもない写真たちを想い出へと変えてくれているのだ。


いつも写真に際して思うことがある。
それはシャッターを切るという行為そのものが、撮りたいと思った瞬間の次にくるということ。
つまり、本当に収めたいと思う瞬間にはシャッターは切れない。本当に心動かされ、自らの記憶に焼き付けたいと思った時、わたしたちは手を動かすのではなくそれが永遠に風化しない想い出となることを願うのだ。

だけど、私たちは決してあの時に出会った感情と感覚に再接続することはできない。
それは今この場で「レモンの匂いを思い出して」と言われて難しいのと同じように、過去のありのままの感情と感覚を想起させることは原理的に不可能なのだ。
思い出を表す文法的表現は「現在とつながりを持つ過去」だが、
この現在と過去を繋ぐ媒介が存在しなければ、私たちは過去に思いを馳せることはできない。

しかし、先ほど述べたように、写真を撮る行為=シャッターを切ることが、
想い出として語り継ぎ、将来の自分が今(未来から見たときの過去)と接続することを望むような瞬間であることを保証しない。
なぜなら本当に物語として語り継ぎ、色あせることのない記憶として残すべきものは、シャッターを切るというまさにその瞬間をカットし、冷凍保存するような手間をかける思考の余裕が生まれていないからだ。

本当に大切なものは写真に残さず目に焼き付けておきたいとその場は思うけど、何年か何十年か後にその当時の気持ちを思い出す為に写真がないと、「それがかつてあった」こと、そしてそれが「目に焼き付けておきたいほど大切な瞬間」であったかを証明できないという思考の罠が、そこにはあるのだ。

ロラン・バルトは言う。
写真とは本質的には「現在と繋がりを持たない絶対的な過去」であると。
シャッターを押すという行為は、昆虫を殺して乾燥させる、標本を完成させるようなものだ。写真とは私たちが過去にイメージするような生ではなくむしろ、「死」の匂いがその周辺で響いている。

そう、「死」が問題なのだ。
私たちの残すべきだと感じる瞬間、そして語り継ぐべき物語は、ありありとした生=今と接続されていなければならない。であるならば、私たちが過去と接続することができる媒介で、且つそれが生を帯びているものであるためにはどうしたらよいのか。

その答えが、この雑多としたフォルダの中にあったように感じている。

つまりそれは「日常」にフォーカスを送り、その瞬間に感じていたことを残すことを目的としてシャッターを押すという行為だ。

シャッターを押すべきものが何も誰かにとって映えるような特別な瞬間である必要はない。
「日常」で息を吸うようにシャッターを切ること。それは私たちが唯一写真という媒介を通じて過去にアクセスをする手段だということ。

5年という熟成期間を経て現像された写真たちは決して強い意味づけのある写真たちではないが、ただ一つかつてそこにあったことだけが確かな記憶として今に蘇る。

ここに、傷を癒す可能性を見出すことができる。
僕が今までに負ってきた数々の傷を乗り越えて生きていくスタンスだと言うことは以前の記事にも書いた。

どこか寂しいのだ。

過去を乗り越えて常に前をむいて歩く姿勢は、ある種模範的でもあるけども
その病的なまでに過去との決別を図ろうとする態度が何か大事なものをその場に置いてきているような気がしてならない、と常々思って生きている。

その場に置き去りにしてきた「傷」の存在、
膝を抱えてうずくまる幼子のような自分に写真を通じて今の僕が再び触れた時、
それは死へと追いやられたものではなく、脈々と鼓動を感じ取ることのできる記憶となって立ち昇る。

それはベルベットの毛布で優しく包み込まれたような、
かつて自身が羊水の中にいたときのような温かい記憶となって
全てを赦せるようになる瞬間なのかもしれない。



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