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「親の死に目にも会えなかった」方が普通ではなかろうか(上)
今日、私の住んでいる辺りでは、朝から結構な雨となりました。西日本では午後3時28分頃から広島駅~博多駅間で新幹線が運転を見合わせるなど、もっと強い雨が降っているようです。あなたが住まわれている地域は無事だったでしょうか?
さて、……。
「親の死に目にも会えなかった」という言葉、今でもたまに聞くことがある。かく言う私も、父親の死をスキー宿で聞かされた。やはり「死に目に会えなかった」うちの1人である。
この言葉を調べてみると、意味・由来がいくつかあることが分かる。
一般的には「親の死を看取るのは最後の親孝行であるとの価値観に立ち、それができなかったのは親不孝であると考え、そうなった自身とその運命を嘆く」意味で使われることが多い。
よくドラマなどで、布団やベッドに横たわる今際の際の老人を家族・親族が取り囲んで、その様子を固唾を飲んで見守る。場合によっては、呼吸を乱しながらもその老人が最期の自分の思いを周囲の人々に順番に告げ、息を引き取る。医師が脈を取り、瞳孔をライトで照らして死を確認し「ご臨終です」と告げるシーン。
この場に居合わせることができなかった、最後に言葉を掛けることも言葉を聞くこともできなかったといった義務を果たす機会を逃した喪失感が、親不孝をした後悔を更に強めてしまうように思う。
次に、この言葉は「親より早死にするのは親不孝だから避けなければならない」という意味であると説明しているサイトを見つけて驚いたことがある。
親より先に自分が死ねば、当然親の死に目に会うことができない。そのことを戒めている言葉だとの考えである。でも、これは率直に言って素直さに欠けていると思う。
ぶっちゃけ、私が上に書いたように「親より早死にするのは親不孝だから避けなければならない」の方が、「親の死に目に会えない」などと思わせぶりな表現をするよりもストレートで分かりやすいからだ。
一瞬、そんな意味だったのかと感心しかけたけど、私はそれは違うと考える。
(続きます)
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