神は濫用され過ぎだと思う
今日は一際暑かったですね。それ以外に感じることはありません。
さて、……。
昨日、以下の毎日新聞記事を読んだ。なるほどと思った。
「神はいるのか」「神を信じるのか」について、恐らく太古の昔から多くの人が自問自答したり神学論争したりしてきたと認識。ただ全世界で神話はある。つまり神の存在は肯定・否定はあるものの、それらも含めて意識されてきたことである、と言える。
でも、その神は地域や宗教によってその概念がかなり異なる。一神教もあれば多神教もあるし、偶像崇拝を認める・認めないもある。
そもそも、神に会った人はいない。ここで「心の中で」を認めると、また個々人の認識や理解の違いまで話が拡大してしまい、結論に至ることが難しい。
ちなみに、私は卒業旅行でトルコに行った。そこで現地の人に「日本では8 billion God がいると信じられている」と説明したら絶句された経験がある。トルコは緩いとはいえイスラム教国。一神教徒に八百万の神はとても受け入れられないものだった。
悲惨なことが起こった際に「神様の思し召しだ」と受け止める人も少なからずいる。逆に「この世に神はいるのか。いるならなぜ世の中はこんなひどいことが起こるのか」と疑念を持つ人もいる。このあたりについては、まさに人により千差万別となる。
八百万の神がいるとされる日本において「神すぎる」という表現は、どの神を基準にしているのだろうか。言われて真面目に考えてしまうが、言う人はそこまで考えてはいまい。むしろ、神について考えていれば絶対に出てこない表現だからだ。
一神教ならいわずもがな、八百万の神をまるっと受け入れたとしても、それぞれの神は敬意を持って接する対象である。神は人の上に存在するものと考えられている以上、神は高いところから人を見守る存在であり、例外的に手を下すにしても個人の浮世的な欲を満たすようなことはしないと思う。
単に自分にとって心地よいことをしてもらったことを以て神対応、それを更に神すぎると表現するのは、いくら何でも神概念の濫用だと言ってよかろう。
そもそも、神様に何かやってもらった経験があれば、その経験と比較対照した上で神対応とは言えるかも知れない。でも、そんな経験がある人はいないはず。表現をオーバーにしたい気持ちも分からなくはないが、やり過ぎ感は否めない。
どうにもならない時に祈る対象は神であってよい。でも、凡俗な内容で想像以上のよい待遇を頂いたことを以て「神すぎる」はちょっとなあと思っている。
お読み頂き、ありがとうございました。