たられば願望も詰められると意外に曖昧
今日は傘が手放せない一日でした。朝家を出る時に雨が降っていて、昼は傘なしでも何とかなったものの、帰宅時はやっぱり雨が降っていて傘が必要でした。幸い大雨ではなかったので助かりました。
さて、……。
あなたは「もし◯◯があればorなければ、自分はもっとよい人生を歩くことができたはずなのに」という思いを持ったことはないだろうか?
「あるよ」という人は間違いなくおられると思う。「ないない」と否定できる人は、今まで素晴らしい人生を歩んでこられたことが透けて見えて、うらやましい。
では「あるよ」という人に更問いをしてみたい。「もっとよい人生」とサラッと流したけれど、それがどれくらいよい人生なのかについて、詰めて考えたことがあるだろうか。そう問われると、口ごもってしまう人が多いように思っている。
もちろん「たられば」にはいろいろなケースがある。ヤングケアラーは病気の親を持ち、義務教育の頃から親の日常生活をケアしてきている。彼らは物心ついた時にはそれがあたり前のことが多く、誰かから指摘されないと「もし親が健康だったら」と考えることすらできない。
また子供が障害を持って生まれてきた人は「この子が健常だったら、自分の人生はきっと違うものになっていたはずなのに」と考えるという。それは想像に難くない。かなり強くそう思うだろうし、それを否定できない。
他にもいろいろなケースがあるのだけど、今の生き様は持って生まれた運によってその環境に置かれているのは確か。一方で、要因となる○○の有無によって人生が変わるのは否定できないものの、その変化の幅は期待ほど大きくはない気がする。
もし「千坪もある大豪邸に住んで、庭でゴルフ練習をやり放題。年代物のワインを飲みながらお抱えのコックが腕によりをかけて作った料理を日々楽しむ。多くの人が自分に会うと随喜の涙を浮かべて跪く……」
こんなことを考えて、それが実現すると思い込める人はさすがにいないのではないか。仮にいたら率直に怖い。
ただ、今がうまくいっていないと感じ、割を食っているという思いを持つことはあり得る。そういう人が強烈に今よりもマシに生きたいと願うのはナチュラルな気持ちだろう。
もっとも、それが妄想と言われると反論が難しい。とはいえ、一時でもその思いの中に逃避することまで否定するのは酷だなと思う。そして、今の状況をリアルで軽減できるような方策を考え、それを提案をしていくことも必要だと思う。
少なくとも「どうせ大した人生じゃないよ」と切り捨てるのは何の救いにもならないのだから。
お読み頂き、ありがとうございました。