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いつものように。

 いつものように、ワゴン車の荷室に作ったベッドに飼い犬のちょこを寝かせ、家を出る。通勤時間でも空いている田舎の国道を40分ほど走り、会社の駐車場に入る。エンジンを切り、リアゲートを開けると、ちょこはぐっすり寝ていた。年老いて毛並みはボロボロだが、無心に眠る姿は愛おしかった。ワゴン車の荷室は、彼にとって慣れた安心できる場所になっている。毎朝、荷室に乗せると大きな瞳で僕を見つめ、クルマを出すと振動に身を任せ、心地よさげに眠りに入る。

 寝たきりになった老犬と一緒に出勤するようになって、一年が過ぎようとしている。独り身の僕は、介護の必要な老犬を家に置いてはおけない。褥瘡ができないようにクッションを2枚重ねてベッドを作り、圧迫感がないように後部座席を取り外した。夏は日陰の動きに合わせて駐車位置を移動し、エアコンをつけっぱなしにして、凌いできた。夏のあいだ、クルマに負担をかけ続けたせいか、秋になって走行中に突然エンジンが止まり、肝を冷やしたこともあった。

 ちょこの身体に掛けていたタオルをめくると、真っ黒な柔らかい便が出ていた。勤務時間が迫っていたので、後で片付けようと思い、会社に入る。もう自力で動くことができないので、汚れを広げてしまう心配はない。
 9時半に便を片付けにクルマに戻ったときは、ぐっすり眠っていたが、その一時間後に様子を見に行くと、こと切れていた。体をゆすり、声をかけても、反応は無かった。身体にはまだ温もりがあり、触った感触は柔らかかった。目を開いているから、死の直前は苦しくて僕を呼んだのかもしれない。悲しくはなかった。深く安堵していた。

 ちょこはもうすぐ死ぬだろうと、昨夜から感じていた。勤めを休もうとは思わなかった。ここ数年の間に、両親と最初に飼った犬を立て続けに看取ったことで、死は誰にでも訪れる、ありふれたこととわかっていた。

 できれば死の瞬間に立ち会うのを避けたかった。死の間際は苦しむのかもしれないから、その時傍にいるのが恐ろしかった。2週間前から、ちょこはほとんど食べなくなり、わずかな水しか飲まなかった。口を大きく開ける力もなくなり、食べ物を乗せた僕の掌に口を必死に押し付け、やっと口に入れても、なかなか呑み込めなかった。時間をかけて、やっと飲み込んだ後は、そっぽを向き、それ以上欲しがらなかった。食欲はあっても、食べる力が無くなったのだ。舌もちょっとしか出せず、水を飲むときに鼻が水面についてしまい、むせた。
 寝たきりの状態になって数ヶ月経った頃、上唇の垂れ下がった部分が口の中に入り、その状態で口を固く閉じるせいで、牙が上唇を貫通した。獣医に相談し、上唇が下がらないように、少し持ち上げた状態で縫い付けてもらったが、2日目に糸が切れ元に戻った。気を付けてみてやるしかない。
 無理に飲み食いさせなかったし、なんとかして栄養を摂らせる気も無かった。これ以上無理に生きさせても、ちょこが辛いだけだと思った。食べる楽しみが無くなり、姿勢を変えることもできない。痒いところを後ろ脚で掻いたり、歯で噛むこともできない。褥瘡ができるかもしれない。また容赦なく暑い夏がやってくる。
 辛いばかりなのに生きさせるのは、やめる。飼い主として、そう決めた。

 自分も、きつい。いつも優しく接する自信はない。

 寝たきりになる前に、何度か倒れたちょこを、人工呼吸で蘇生させたことを、後悔していた。辛い思いを長引かせただけだった。一時間おきに夜泣きで起こされ、怒って叩いたこともあった。叩かれるがままで決して反撃することのできない犬に。その後、自己嫌悪から「ごめん」と謝る自分は醜悪そのものだった。

 寝たきりになって半年ぐらい経った頃から「もう死んでくれないかな」と幾度も思った。「単身者は犬を飼ってはならない」といわれるが、そのとおりだった。ちょこの存在を疎ましく思う時間が、日を追って増えていく。犬は、飼い主の心情を驚くほど敏感に察知する。ちょこは僕の気持ちをわかっていただろうと確信をもっていえる。

 死の前日は日曜日だった。
 昼間は冬の日差し当たる暖かい部屋で眠っていたが、その夜はずっと目を見開いていた。息の匂いがいつもと違っていた。暖房を効かせた部屋に、その匂いが充満した。もうすぐ死ぬ匂いなんだろう、と思った。なぜか、周囲を警戒しているときのように、耳が鋭く立っていた。白濁した右目が鈍く光り、普段の気弱なやさしい表情のちょこではない。近付いてきた「死」に対して警戒しているのかのように思えた。僕は何もせず、ただ普段どおりにしていた。苦しまずに逝ってほしいと、それだけ願っていた。

 その夜、ちょこは一晩中起きていたのだと思う。
 悩まされていた夜泣きが、まったくなかった。朝5時頃目が覚め、ちょこを見ると、黙って目を見開いていた。自分が寝る前に見たちょこと、まったく同じ状態だった。掛けていたタオルをどかすと、黒く柔らかい便が出ていた。肛門が緩んで漏れた、という感じの便だった。便で汚れたお尻の下を拭くために持ち上げた体は、重力に任せてぐにゃりと曲がった。まるで抜け殻のような体だった。身体の向きを変えられただけでしんどいらしく、呼吸が荒くなった。もうすぐ死ぬのだ。はっきりわかる。
 水を、と思い、タオルに水を含ませて口元に水をたらすと、激しくむせた。そのすぐ後、呼吸が止まった。呼吸が止まったことは、いままでに何度もあった。そのたびに人工呼吸で蘇生させた。僕は横たわるちょこの前に正座して見守った。触れてはいけないと思った。触れたら呼吸が戻ってしまうかもしれない。そのまま30秒ぐらい経っただろうか。呼吸が戻った。
 死なないのか。僕は落胆した。

 一昨年亡くなった犬は、17歳まで生きたが、介護期間が2ヶ月と短かった。僕も犬も、お互いに優しい気持ちを持っていたうちに、死を迎えた。  
 ちょこは介護時間が長かった。僕のせいだと思う。飼い犬を、むやみに延命してはいけない。できるだけ、自然に逝かせるのがいい。寂しいから、悲しいからといって、引き止めてはいけない。でもその時は「だまって見守る」という選択肢はなかったのだから、仕方がないと思う。

 ちょこがいなくなって寂しい。介護が無くなり、間違いなく楽になったはずだが、その実感はない。特に変わらないような気がする。ただ、寂しく思う。
 ちょこが生きていた頃、眠るちょこのおでこに、自分のおでこを軽く押し付け目を閉じると、その温かさと鼓動に深い安心感に包まれた。まるで母親が傍にいるような気がした。

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