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高熱と孤独の中で
急な高熱で布団に潜ったまま動けなくなった私は、酷い喉の痛み、咳、高熱にうなされながら孤独を感じていた。
子どもの頃こんな時には、氷枕を作ってくれ、おでこの手拭いを取り替えてくれ、ねぎや卵のおじやを作ってくれる家族がいてくれてよかったと心の底から感謝し涙が流れたものだった。熱がでると涙もろくなって毒が流れ落ち真っ白な心になる感じがしたものだ。
ところが今熱にうなされている自分はどうだろう。朦朧と苦しんでいるが、何とも思わない。不安もない。もしも体調が悪化したらどうすればいいかぼんやり考えてみる。やはり119番に電話をかけて救急車を呼ぶべきだろうか。それともこのままこの布団で息耐えるのがいいのだろうか。
働くことには疲れてしまった。会社の仕事も人間関係にもうんざりだ。このまま布団で息耐えれば会社は退職の手続きをしてくれることだろう。
ん?いや、誰が会社へ連絡を……。会社に親しい同僚はいないから、社外の誰かに連絡を入れてもらわなくてはならないではないか。
死後数日が経過してから発見されましたではあまりにも迷惑がかかるのではないか。
それに毎日暑い…… 停電でもしたらあっという間に私は腐敗してしまうことだろう。
それは嫌だ。腐敗後に発見は嫌だ。
それが嫌なら具合悪いことを誰かに知らせておく必要がある。それって……自分具合悪いの。調子悪いの。熱があんの。って自ら具合悪いアピールして「大丈夫?」って声かけてもらいたいみたいじゃない。それも嫌だ。カマッテチャンになりたくない。
39℃を超える高熱にうなされながら、息絶える自分とその準備をする想像をしている私はなんなのだ。
死ぬことは怖くないと言えば嘘になる。でも若い頃よりは怖くない。だいぶあの世に近づいている老いていく自分を感じているから。
体力の低下、脳の衰え、体型の崩れ、肌のシミシワ……
あぁ…… 今息絶えて発見されたら、髪の毛ボサボサじゃないかとか、化粧していないから顔を見られたくないだとか、そんなことを考えているうちは私は死にはしない。
どんなに熱にうなされて、頭痛や咳に苦しんだとしても、復活して日常生活に戻った自分も想像できてしまう。いや、そちらの方が自然と想像できるから私は死にはしない。
結局、友人にLINEした。
「コロナになった~ 高熱~」
カマッテチャンだ。
友人たちは心配してくれる。ありがたい。ゆっくり休みなよ~ってLINEを貰えるだけで本当に心強かった。だから腐敗する自分のことはいつの間にか頭から消えていた。
この先、そんなに遠くない未来にまた孤独を考えることがあるだろう。
終活ってやつかな。
同い年の友人たちは、推し活、就活、音活して活き活きしている。
終活にはまだ早いのかな。
私の高熱は三日で終わった。喉の痛みと咳はその後あったものの、一週間後にはすっかり元通り。あんなに孤独や死について考えていたのに、今夜何食べようか……なんて当たり前のことを考えていることの幸せをなぜか感じられない。
当たり前って普通ってなに。
きっと私は最後の最後に何の終わり支度もしてなくて「あの時終活しなかったから……」と後悔するだろう。
それでもいいか。
明日のことはわからない。
UberEATSのチャリや、高齢者の車にひかれそうになっても、今のところは生きているではないか。
明日のことは考えるのはやめよう。
いただいたジャガイモがあるな。
今夜はポテトサラダ作るか……
(終)