新型コロナウイルスと都市についての考察ー次なる都市はどんな様相をするかー
疫病の流行と私たちが住まう都市、とりわけ近代以降の都市(=近代都市)との関係は切っても切り離せない関係にある。
そこで都市という観点から新型コロナウイルスを考察することで、近代都市の欠陥を見出し、そして次なる都市はどのような様相となるのか。それらの私なりの見解を述べる述べる。
建築家の西沢大良の著書『現代都市のための9か条 近代都市の9つの欠陥』を読み解きながら考察する。
都市と集落から見る新型ウイルスの起源とその蔓延
2020年始め、中国の農村部を起源とする新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るった。スペイン風邪や昨今の鳥インフルエンザと豚インフルエンザといった疫病の起源を歴史的に見ると、疫病は動物と棲家を分け合う地域を起源とする。というのも、インフルエンザウイルスはヒトと豚や鶏といった家畜の腸内でそれら独自のウイルスが混合し、突然変異をしたものが猛威を振るうからだ。これらの未知のインフルエンザウイルスは、それ以前の自然淘汰により獲得されてきた免疫を持たない動物に猛威を振るう。
集落では、人々の生活が営まれる場所のほとんどが独自で食料・エネルギーを生産する地であるため、上記の理由で疫病の発生リスクは高い。しかし、《人口定着性》によってその集落で疫病が発生してもその域内で終息したはずだろう。これは大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』という小説にも描かれている。概要としては、集落内で疫病が起こり、村の役人らはその集落を閉鎖してしまう、というものだ。集落で疫病が起こると、その集落を閉鎖してしまえばその域内より外に疫病が漏れることは極めて少ない。なぜならば集落は《人口定着性》により成り立つ特殊な場所であるからだ。このような圏域が互いに干渉しないように数多に存在していたのは産業革命による都市人口の増加の現象が生じる以前のことである。
一方、都市となると話は異なる。都市は集落とは異なり食料・エネルギーを独自に生産することができないという点で完全に外部依存型の生存形態を取っている。そのため都市は、紀元前に起源をもつシルクロードや現在でも主たる海運などを通じての交流が生じる、すなわち《人口流動性》によって生存しうる場所である。すると、集落のようにその土地独自で孤立して生存可能できないため、疫病がヒトを媒介としてある場所からその他の場所へと国境を問わず蔓延してしく。媒介となるのはヒトのみでなく、マラリアに代表される蚊などの土着的な生物を媒介するものや、天然痘のように患者の病原菌が付着した物を媒介とするものさえある。これらのものは主に上記に挙げたように海運などを通して国境問わず蔓延する。このようになると、都市と疫病は都市の《人口流動性》そして《外部依存性》により、もはや切っても切れない関係ということができる。これにより時代によらず人と疫病との関係は絶たれることはない。
都市と緊急事態
話を新型コロナウイルスに戻そう。新型コロナウイルスの拡大とワクチン接種については、近代都市の9つの欠陥に基づいて二つの事象に分けることができる。一つが《新型スラムの問題》、《人口流動性の問題》そして《ゾーニングの問題》といった現在の世界システムの表層に現れる事象、もう一方は《セキュリティの問題》や《都市寿命の問題》といった現在の世界システムの深層に現れる事象である。
世界システムの表層に現れるものとは、産業革命に始まる産業資本主義の誕生期から衰退期にかけて現れる副次的な影響を及ぼすものを指す。すなわち、あり特定の課題に対する処方箋が、良くも悪くもかえって意図せぬ結果に導くことを指す。先ほど挙げた《新型スラムの問題》、《人口流動性の問題》そして《ゾーニングの問題》はまさにそうである。これらの問題は現在の世界システムにとってはごく自然な事柄として捉えられている。しかし、私たちに緊急事態が生じるときに、これらの自然であった事柄が新たな課題として浮き彫りとされるのである。新型コロナはまさにそのような状況を説明するのに最たる出来事であったと言える。個人的に最も顕著にこれが現れたのは《ゾーニングの問題》であると感じる。近代都市計画のゾーニングとは、産業資本主義台頭時のロンドンにおける《人口流動性》の激化に伴う住環境の悪化に対するある種の特効薬のようなものであった。しかし、現代ではノヴァート・ウィーナーの言うように、三次産業などに見られる知的労働などによる第二次産業革命による場所の拘束性がなくなったことで、このような近代都市計画のゾーニングという手法はもはや形骸化していると言わざるを得ない。この形骸化した姿は、普段何気なく生活を営んでいても認識することはないが、この度の新型コロナウイルスで顕著に姿を現したと言える。このような都市における機械的なゾーニングは、職住のエリアを明確に隔離することで、緊急事態宣言により外出できない際にはしばらく労働という社会の歯車が回らず、資本主義経済体制に甚大な影響を及ぼす。また、経済体制のみでなく、都市住民にも甚大な影響を及ぼす。都市は賃労働者の寄生する場所であるために、賃労働ができなくなったときはもはや独力でどうすることもできず、組織に依存することしかできない。このような影響が都市に住む全ての者を含むため、彼らは組織からクビを切られると、お金を稼ぐことができなくなり、収入がなくなる。これは新たな《新型スラムの問題》の一因にもなる。このように、これらの近代都市の欠陥は、日常に潜んでいるのにも関わらず、私たちはなかなか認識することができない。しかし、新型コロナウイルスのような甚大な被害を伴う出来事が一度起こると、すぐに複数個の問題が絡み合うかのように姿を見せる。私たち都市に住む者たちは、たった一つの弱点に直面すると、突然その表層上の事象が崩れてしまうという、極めて冗長性が希薄で外部依存的な場所に住んでいるのである。
また、世界システムの深層にあるものについては経済体制や国家、資本の原理などが挙げられる。この世界システムも冗長性の希薄さにより様々な課題が浮き彫りにされた。例えば、緊急事態宣言下の状況もそう言えるだろう。仮に、権力が様々な箇所に分けられていたとしたら、新型コロナウイルスに対する政策も各権力下によって異なる冗長性に富むものになる。その結果、各政策の良し悪しで政策を良い方向に修正ないしは継続することを選択することができる。しかし、世界システムが一つに統一され、権力が集中的であると、政策は一つの権力下が決定するため、それが良いのか悪いのかの判断の材料がない。一個の課題に対して一個の解決策という極めて機能的なものにならざるを得なくなってしまう。これは都市住民の思考停止へとつながる。まさに上と下の関係である。
現代都市とは
上記の事柄から、近代都市の欠陥を克服した現代都市とは主に以下の二つの要素を持つものになると考える。一つは冗長性を持つ、ということだ。近代都市はゾーニングなどの様々な事柄を機能的に決定してきたことで一つの課題に対して一つの方法しか取り得ない。短期的な方法と長期的な都市とのギャップにより、形骸化されたものが浮き彫りになってしまっている。しかし、都市に「冗長性」を持たせることにより、一つの課題に対して様々な方法を取り得ることが可能となる。もう一つは国家に複数の権力を分散させることだ。これは政策や制度といった対策を複数策講じることで、これもある種の「冗長性」を持たせるという意味で有効に機能する、という考えである。これは権力を分散させることで政治的にも下からの権力を促すものである。そうすることで、現在のような一方的な一つの政策が横行することなく、冗長性に富む複数の選択を得ることが可能となり得る。概して言えば、「冗長性」に富むような権力が多方向に存在する都市が現代都市となるであろう。そのためには、まずはソフト面から変わらなくてはなわない。それは私たちの政治に対する意識であったり、教養であったり、リテラシーであったりする。しかしそれ以前にこのソフトを新たなものにするためにハードとなる建築のビルディングタイプの変革が必要となっているのではないだろうか。私たち建築を学ものは、これらの長期的視野に基づく洞察力が必要になってくるであろう。