見出し画像

渚の生と死、ふたたび【酒井卯作氏、逝く】

12月1日、民俗学者、酒井卯作氏が98歳で逝去した。酒井氏の生まれは、英国のエリザベス女王より1年早い1925年。女王は去年亡くなったので、女王より1年早く生まれて、1年遅く亡くなったことになる。そう聞くだけでもすごいが、女王が教科書に残る歴史をつくった人なら、酒井氏は放っておけばただ消えていくだけの庶民の歴史を独自の世界観と洒脱な文章で書きとめた人だ。

東大農学部を卒業後、農務官僚でスター民俗学者だった柳田國男のフィールド旅行のかばん持ちとして日本各地を旅行。横浜からマルセイユへ船で渡ってパリ大学に学び、ベトナムの稲作祭祀について論文を提出。帰国後は琉球弧(おきなわ)をフィールドに、在野の学者として旅や執筆をつづけた。

名誉や権力からもっとも遠いところで知を極め、死亡記事ひとつで出なかった酒井氏の生きざまは、勲章をもらい、日本民俗学会葬で見送られた師・柳田國男とは対照的だった。

酒井氏の専門は沖縄や奄美の死者にまつわる風習や思想・信仰。つまり、死体やお化け、お墓、お葬式など、ちょっとこわい話だ。

代表作『琉球列島における死霊祭祀の構造』はわたしの愛読書で、場もわきまえずに医学系の雑誌で書評を書いたこともある。出版社の許可をとってあるのでここに再掲する。

https://www.jmedj.co.jp/journal/paper/detail.php?id=7382

卯作先生(以下、こう呼ぶ)とわたしは亡くなるまでの10年ほど交流があった。ただ、パンデミックもあって、ドイツに来てから会ったのは2回だけだ。

1回は、宮古島出身のライターでわたしとも先生とも親しかった宮国優子さんが、2020年に49歳で亡くなった時のことだ。お悔みに行くといったら、コロナの真っ只中なのに一緒に来ると言って聞かないので、駅で待ち合わせて優子さんの住んでいたアパートまで行くことになった。

アパートに着くと、エレベーターがないことが分かった。これは困ったと思ったが95歳の卯作氏は予想以上に健脚で、3階まで休むことも無くのぼっていった。

しかし、まだワクチンもなかった頃のこと、残された娘3人と親せきでごった返した優子さんのアパートの部屋は今は懐かしい3密そのもので、コロナに感染させたらどうしようとまたわたしを不安にさせた。

お焼香を終え、短くお暇しようと立ち上がると、先にお焼香を終えた卯作氏は優子さんの子どもたちにマスク無しで囲まれながらお茶をすすっている。

そして、「優子ちゃんみたいな死にそうもない、頑丈でタンク(戦車)みたいな子がこんなに若く死ぬなんてねえ……」などと、失礼なことを言っている!

これは絶対に罰が当たると思ったが、結局、卯作先生はコロナにはならなかった。もっとも、それはわたしが優子さんの仏前で「まだ卯作先生は連れて行かないでください」と手を合わせたおかげだけれど。

その日の卯作先生はなぜかちょっと楽しそうで、「きょうは優子ちゃんのおかげで、りこちゃんに会えてよかった。お茶でも飲んでいこう」と言うので、外でまたお茶を飲み直した。最近、男性向けの料理教室に通いはじめたが自分が最年長。でも、最年少も50代の不器用な男性で、みんな料理をしにきているというより食べに来ているだけだから、教えている女の先生は気の毒だなどと話していた。

次に会ったのは昨年、吉祥寺東急デパートの「梅の花」でランチを食べた時のことだ。

パンデミックの最中でも石神井にある自宅から国会図書館まで毎日歩いて通っているとの噂を聞いていたが、久しぶりに会った卯作先生は杖をついていた。

聞くところによれば、先生の主催する民俗学誌『南島研究』を郵便局に出しに行く途中、自転車で転び、そのまま救急車で運ばれて入院した。同じ病院には自宅の階段から落ちた妻が先に入院していたが入院中に亡くなった。コロナのため院内の他の階に行くことも許されず、死に目には会えなかったという。

少し元気がないように見える卯作先生は、「玄関の鍵もかけず何日も入院していたのに、取るものがないから何も取られていなかったよ」と笑った。「でも、庭の植木鉢はかわいそうに、誰も水をやらないもんだから全部枯れてしまっていてね」と続け、「それでも構わず毎日、毎日水をやり続けていたら、植木からまた芽が出てきてね。花まで咲きだした」と言った。

もう階段3階分をすたすた上がる感じではなくなっていたが、頭と言葉は前のままで、「もうこれは手放せないかもしれないけど、また沖縄にも行こうと思って」と言って、杖で床をついた。

それから、若い頃、野宿をしようとしていたら泊めてくれたという山梨県のどこかの峠のお宅を訪ねて行ったが見つからず、駅前の寂れた食堂で食事をして安宿に泊まったという話や、奥さんの実家のある鹿沼まで行ったが東京にもどったところで電車を降りそびれ、また栃木まで行って東京に戻ってくると自宅まで戻る電車がないので初めて漫画喫茶に泊まることになったという話などといった「96歳の近況」を聞いた。『南島研究』の表紙の文字は実は子どもの書字なのだという話や、文章を書く時は先にオチを書いてしまえば後はどうとでもなる、といった話もした。

豆腐ランチのコースを一皿残さず食べ終わった卯作先生は、緑のちりめん風呂敷に包まれた箱を差し出した。

「今日はこれをりこちゃんにあげようと思って」

それは、

ここから先は

1,906字

¥ 300

正しい情報発信を続けていかれるよう、購読・サポートで応援していただけると嬉しいです!