まるで同窓会報?大宅壮一ノンフィクション賞作品『彼は早稲田で死んだ』
早稲田大学第一文学部の学生が学生運動の内ゲバで殺害されたという1972年の事件を題材にした、第53回大宅壮一ノンフィクション賞受賞作「彼は早稲田で死んだ」が、代島治彦さんや鴻上尚史さんの協力で映画化されると聞いた。
わたしたちの年代にとって学生運動は、なぜそんなに盛り上がっていたのかがいまひとつピンとこない、でも、そんなにも情熱をかけるものがあったとは当時の学生が少し羨ましい、と言った感じのぼんやりした存在だ。
同書のアマゾン・レビューを見ると、筆者と同時代に生きた人たちがたくさんの熱いコメントを寄せている。読めばその時代のことについて少しは理解できるかもしれないとの期待から、本書を読んでみることにした。
学生運動の雰囲気は分からないではないが…
革マル、中核、民青、ゲバルト、ピケ、ヘルメット、自己批判、議論をふっかける――。この本には、「その年代」の人たちから聞いたことのある言葉がちりばめられており、これらが、当時の大学生の日常を支配してたことは分かる。
しかし、読書としての経験は、苦痛だった。
これでは、同窓会報だ。しかも、自分とは関係のない大学の、関係ない入学年、関係ない卒業年の同窓会報だ。
筆者は、殺された学生の友達だった。だから、どうしても個人史的なものにならざるを得ないのは分かる。しかし、筆者は元朝日新聞の記者でもある。事件を客観化し、社会とか時代といった大きな枠組みの中で意味づけを行いながら事実を語ることのプロのはずだ。どんなに私的な思い入れがあるとは言え、亡くなった学生を「川口大三郎君」とする君づけがまず落ち着かない。ノンフィクションとして読むには、文体も内容もエモーショナルすぎて、すぐ読み続けるのが嫌になってしまった。
わたし世代の一般読者は、筆者とは前提を共有していない。
まず、革マルも中核派も民青も、そもそもどんな存在で、何をどうすることを目的に運動をしていたのかが分からない。似たような考えの学生たちが細かな主張の近いから仲間割れし、本来の敵なり目標なりを忘れ、角材だの鉄パイプだのを持ち出して殴り合うようになったらしいということは分かったが、「だから?」「なぜそんなことを?」という白けた気持ちは収まらない。
わたしたち世代がどのくらい学生運動のことを知らないかと言うと、「僕たちの世代にも全共闘への憧れのようなものはあった」というような一文が出てきて、やっと「これは全共闘と呼ばれているのとは別で、もう少し後の時代の話なのだ」と気づいたり、マルクス主義者(マルキスト)と名乗っているくせに、革マル(革命的マルキスト同盟)が共産党と対立してることに混乱するありさまだ。
早稲田一文出身の母に訊く!革マル、中核、民青の違い
そこで、わたしは、ある人に助けを求めることにした。早稲田大学第一文学部出身の母である。聞けば、この事件の起きた1972年は、母が早稲田を去った年だという。
母は田舎の開業医の末娘で、自称ノンポリだ。しかし、ある日、祖父がテレビでヘルメットを被ってシュプレヒコールを上げている母を見たというので、東京に人をやって母を連れ帰ると、
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