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鮒佐@浅草橋 大野真徳さん(平29交文)

 浅草橋駅を出て3分ほど歩くと、落ち着いた街並みの中にひとつの佃煮屋さんが現れる。江戸時代から続く佃煮専門店「鮒佐」である。初代・佐吉の名を代々戸籍上から襲名し、現在では五代目大野佐吉さんが製造している。
 今回はそんな歴史ある佃煮屋さんの次期六代目、大野真徳さんにお話をお伺いしてきた。


悔いのない大学生活

「幼稚園の頃から将来の夢は佃煮屋って書いているんですよね。よく子どもたちがヒーローとかに憧れるじゃないですか。僕はそれが父親だったんでしょうね。」

 小さい頃からずっと変わらず、佃煮屋さんになるのが夢だったという大野さん。そんな信念の強い大野さんは、小学校から大学までを立教で過ごした。

「高校3年生の時に立教大学の説明を聞いて、観光学部が面白そうだなあと思って決めました。フィールドワークとかに行ける機会が比較的多い学部だったので、やってみたいなあと。将来佃煮屋さんになるのは決まっていたので、せっかく大学に行かせてもらえるんだったら好きなことをやろうと思って。」

 そうして一番興味を持った観光学部交流文化学科に進学された。そんな大野さんの大学時代の一番の思い出は、“バックパック旅”だ。
 バックパックひとつで海外を旅する、いわゆるバックパッカーをしていた大野さん。日本にいる間はアルバイトをし、休みになると2、3か月ずっと海外で生活という大学時代を過ごしたそう。4年生の時にはアフリカ縦断も果たした。しかし、

「海外に行くたびに日本が一番いいなと思っていました。国を訪れて一番イメージに残るのはそこで出会った“人”なんですよ。みんながすごく良いと言っている国でも、そこで変な人に遭ったり強盗に遭ったりするとやっぱりイメージって下がるんですよね。逆になにもない地域でも、現地の人に良くしてもらった出来事があったりすると、その地域のイメージってぐんと上がるんです。」

そう語る大野さん。日本以外では、出会った現地の人が温かかったチリが好きだという。
 学部の授業の中で一番思い出に残っているものは、1年生のはじめの早期体験プログラム。これは約1週間の海外フィールドワークを通して現地の文化や観光について学ぶプログラムであり、大野さんはミャンマーを訪れた。ミャンマーは人なつっこく素朴な人が多く、とても面白い国だと語っていた。
 そんな充実した大学生活を送ってきた大野さん。大学時代に戻ったらやりたいことはあるかお伺いしたところ、

「今しかできないことをやろうという一心で、大学時代にやりたいことはやりきっちゃったんですよね。」

と思い残すことはない様子。最近海外には行けていないため、時間ができたらまた海外に行ってみたいと胸を弾ませていた。

鮒佐の佃煮の製造過程

 佃煮の製造場にお邪魔すると、中には濃く深みのある醤油の香りが広がっていた。これは鮒佐の「秘伝のタレ」である。はじめのタレは関東大震災、二代目のタレは第二次世界大戦によって燃えてしまい、現在は三代目のタレを使っている。この三代目のタレは、戦後から75~76年間の様々な素材の旨味がしみ込んだ出汁を、継ぎ足し続けることによって守ってきた。
 また製造場に入って一番はじめに目につくのは、歴史を感じるかまどである。その上に置かれた鍋はとてもどっしりとしているが、人間が両手で持ち運べるまでの大きさで作られているそうだ。そしてかまどの奥には、大量に積み重ねられた薪が目に入る。鮒佐では昔と変わらず燃料に薪を用いている。薪は火力が強すぎず、弱すぎず、かまどの中で熱が均等に回っているのかがすべてわかるそう。
 佃煮の作り方は江戸の創業以来ずっと変わらず、初代から一子相伝で受け継いできた。まず鍋の中にタレを入れるところから、佃煮作りははじまる。そして竹製の網を上にのせ、マッチで薪に火をつけた後、様子を見ながらかまどの中に薪を追加していく。火が燃えやすいかどうかは天候によって変わってくるため、実際に火をつけてみなければわからない

鍋の様子を見ながら薪をくべていく

 次に佃煮にする素材を鍋の中に入れ、上からタレを継ぎ足し、火加減を調節しながら煮え立つのを待つ。煮え立つと鍋の中の色が茶色からオレンジ色へと変わってくる。アクをとりながら何度かタレを継ぎ足すことで佃煮は完成する。素材を鍋の中で煮る時間はおよそ20分。何度かに分けてタレを入れるため、鍋の中はタレでいっぱいになる。タレが吹きこぼれそうな時は、かまど内の空気の流れを止めたり冷ましたりすることによって調節する。

ぐつぐつと沸き立つ鍋の中で、タレをしっかりと素材に染み込ませていく

 素材によって多少作り方は異なるが、大筋は一緒である。機械には頼らず、一からすべて人間の手で製造している。またその日の体調によって人の味覚は変わるため、鮒佐では基本的に味見はしない。自らの目でその時の素材の煮立ち具合や色味を観察することで、最適な火力などを見極めながら毎回製造している。

美味しさの秘訣は、その日の鍋の中をよく観察することだ

おすすめの佃煮の食べ方

 「鮒佐の佃煮はしょっぱいと思います。」と大野さんがおっしゃっていた通り、食べてみるとタレの味が素材の奥深くまでしみ込んでおり、とても深みのある濃い味であった。
 まず一番定番な食べ方としては、白米やお酒とあわせて食べる方法である。味がとても濃いため、ご飯一杯につき少量の佃煮をのせるだけでもいつもとは一味変わったご飯を楽しむことができる。お酒は特に日本酒に合うというが、中にはウイスキーとエビの佃煮をあわせて楽しむ方もいるという。
 また佃煮を塩のかわりとして使用することで、ガーリックチャーハンや和風ピザにするという食べ方もあり、まさに佃煮の楽しみ方は十人十色。
 大野さんの一番好きな素材はあさりで、お酒と合わせて食べるのが好きだとおっしゃっていた。鮒佐の定番商品である5種の佃煮のつめあわせから、自分の好きな佃煮の食べ方を探すのもよいのではないだろうか。

他にも昆布やごぼうの佃煮がある(写真は穴子の佃煮)

歴史ある鮒佐の佃煮とこれから

「1858年に日本橋で棒手振りをしていた青柳才助さんが、佃島(現東京都中央区佃近辺)で採れた雑魚の塩煮を“佃煮”という名称で売り出したのが佃煮の始まり。その四年後の1862年、鮒佐初代の大野佐吉さんが種類ごとに醤油で煮詰めた佃煮を売り出したことから、鮒佐は醤油を使用した佃煮の発祥だと言われています。」

 現在では水あめを入れる甘い佃煮(飴煮)が主流になる中、鮒佐の佃煮の味は150年以上経った今でも変わらない。“本来の佃煮の味が提供できている”ところが他にはない鮒佐の大きな魅力である。そのため「昔からの伝統や文化を守っていること」が仕事におけるやりがいであり、仕事をする上で一番考えていることだと大野さんは語る。

「時代に合わせて変えていかないといけない部分もあるんですけど、根底的に守っていかないといけないところもある。たとえば製法なんかは変えてはいけない部分です。伝統を守りながら、どう今の時代に合わせていくかが大切ですね。」

 時代にあったやり方で伝統や文化を守り続けたいと語っていた大野さん。現在は新型コロナウイルスが猛威をふるい、人々の生活様式も変わりつつある。

「以前はお中元やお歳暮、お盆の時期が一番売れ行きが良かったんですけど、今はコロナの影響でみなさん帰省されなかったり、そもそもお中元・お歳暮の文化がなくなりつつあったりで、以前ほどの売れ行きは期待できなくなりました。」

 しかし鮒佐の場合、コロナの影響は必ずしも悪い方向ばかりにはたらいているわけではないようだった。

「最初の緊急事態宣言の時(2020年)って、テレビ番組なんかも撮影できない時期があったじゃないですか。その時、テレビ局から再放送で使わせてもらえないかっていう連絡が2件きて。そのうちの1件の反響が非常に大きくて、はじめてホームページがパンクしたほどでした。」

 大野さんが鮒佐に新たに導入したものは、オンラインショッピング。もともとオンラインショッピングを始めようという話は出ていたが、本格的に動き出したのはコロナが流行しだしてからだという。実際、全国放送のテレビで紹介された後はオンラインショッピングでの注文が相次いだ。

 今後の展望をお伺いすると、いずれは飲食部門を立ち上げ、自分が行きたくなるような居酒屋を作りたいという新たな野望も覗かせた大野さん。現代の人々にあったやり方を追求しながら、これからも私たちに日本の伝統である“本来の佃煮”を提供し続けてくれることだろう。浅草橋に立ち寄った際にはぜひ、元祖の佃煮の味が味わえる鮒佐で日本伝統の味を堪能してみてはいかがだろうか。

学生との3ショット
中央:大野真徳さん
左:学生カメラマン 菅原優衣さん
右:学生ライター 安井瑞貴さん


鮒佐 店舗情報

 〒111-0053
 東京都台東区浅草橋2丁目1−9