走り書き/孤独に向かって
居ても立っても居られなくなり、深夜にこの記事を書いている。
何かを創るに当たり、一人で向き合う事は重要なファクターなのかもしれない。
もちろんみんなでワイワイ考えながら作りあげていくこともあるだろうし、世の中にあるものの多くはそうして出来上がったものであるのも事実。
けれども、やはり、である。自分の内面から掘り出して創るものはどうやっても孤独の中でしか創り出せないと思う。
周囲のノイズに惑わされず、単身で思考の海に潜り必死にその奥底に向けて潜水を続けることでしか生まれえないものは必ず存在する。
そして、そのようにして創られたものは得てして素晴らしいものだと考える。
最近の自分は「つながり」に重きを置いている。
このご時世で強い孤独感に襲われていたことの反動という自己分析であり、この傾向はもうしばらく続くだろうと思っている。
色々な人と話したい、価値観を知りたい、そんな欲求が頭から離れない状態である。
その中で作ってきた記事が何本もあり、そのうちのいくつかは一人では完成させられなかったものだという自覚もある。
自分の作品を貶めることはしない。他人がどう言おうが私は私の創作物を気に入っているから。
だけど、自分の内面とだけ真剣に向き合って何かを作れたとしたら。
それはきっと途方もない体力と精神力を費やすものになるだろう。
そしてその作品の輝き方は他の作品とは一線を画すものとなるに違いない。
正直なところ、そこまでの真剣さを以って創作に向き合うのは怖い。
結局何もできないのではないかという恐怖から、その道を忌避している自分が存在している。
きっと、今の自分ではそこまでの追求ができないのだろうなとも思っている。
だから、もしも孤独に向き合おうとしている人が周りにいたら。
どうかその人のことをそっと見守っていてほしいと思う。
言葉を交わす必要はないし、いわんや何かの手助けをするのは逆効果となろう。
浮上先に誰かが待っていてくれることを確信できるのであれば、当人が想像するよりも深みへ潜れるようになるのではないか。そんな風に私は考える。
浮き上がってきた時に温かく迎えてあげることで、きっとその人がつかんできたものの輝きは増していくと思う。
孤独と向き合える人を私は尊重したいし、尊敬する。
衝動だけで書いてしまった。ノープロット。
真剣に向き合って考えればもっとこの記事も輝くのかもしれないが、今覚えた感情をそのまま文字にぶつけたかったのでこれでよいのだと思う。