好きを語るは難しい
今日も今日とて日記である。
元々自己紹介の記事に書いていたような趣味嗜好の話を書こうとしてこのアカウントを始めたようなものだが、どうにも筆が進まない。
あ、まだ読まれていない方はこちらもどうぞ。
60秒でサクサク読めるのでおすすめです。
この記事でなぜ筆が進まないのかを書くことで禊になるのではないかという、なんだかよくわからない期待を込めて書き進めていこうと思う。
この場の思い付きの分析では、
①必要な知識量
②感情・分析の言語化、考察の整合性を取ることの難しさ
③他人(聞き手/読み手)の目を気にしてしまうこと
このあたりがネックになっているような気がする。
③がベースでそれに付随した①②があるような感じか。
①はいたってシンプルだ。単純に語れるだけの分量を持っていないのではないかという懸念である。
例えば好きな映画について語るとしよう。
この場合に私は「ストーリー(世界観)・演者・監督・脚本・関連作品くらいは押さえておかないと厳しいのかな」などと考えてしまう。
※映画についての知識が薄いため、必要な要素の過不足については目をつぶっていただきたい。
こうなると一本映画を見ただけではダメで、パンフレットは買う、何度か見直すくらいのことはしないといけないのではないかと勝手に思考が進んでしまう。
勝手にハードルを上げているだけ、と言えばそれまでなのだが。
②は①の続きだが、「なぜ好きなのか」を言語化することの難しさがつきまとってくるような気がしてならない。
先の映画の例で考えよう。
「このシーンが好き」とか「このシーンに感動した」とかを語るとして、「どこが好きなのか」、「どこに心を動かされたのか」を説明できないといけないのではないかと考えてしまう。
「めっちゃエモい」で済ませてしまうのを許せない自分がいるのである。
そして③がおそらく諸悪の根源なのだが、「この語りを読んだ/聞いた人は、はたして肯定/共感してくれるのだろうか、無関心のままではないだろうか」という恐怖が内心の多くを占めてしまっている。
映画の例で説明するのであれば、「この感想を伝えた相手がこの映画に興味をもってくれなかったら怖いな」とか「このシーンの良さを説明したら相手が警察で的外れなコメントだったことを指摘されるのでは」という不安に駆られてしまい、語りをためらってしまうということである。
……ここまで書いて改めて思ったが、ただ単にエゴに負けてしまっているだけではないか。
逆の立場で何かを薦められたときに、はたして私は全て肯定/共感できていただろうか。もちろんそうではない。
たとえそれが一流のインフルエンサーのおすすめであったとしても、だ。
それは仕方のないことである。別にインフルエンサーの説明が悪かったわけではないし、もちろん興味を持てない自分が悪いわけでもない。
ただ、ご縁がなかった。それだけの話である。
これは語る立場に自分を置いても成立すると思う。いくら知識を蓄えようと/いくら考察を深めようとも、ダメなときはダメだし、響かない人には響かない。それで終わりである。もちろん質を上げる努力を怠ってよいという訳ではないが、相手に受け入れられるかどうかはまた別の次元の話題である。
想像以上に禊としての役割を果たす記事になってしまった。
結局のところ自分の感情の問題なので、残念ながらこれで吹っ切れたり割り切れたりしたわけではない。いまでも不安はある。
ただ、「この不安は仕方のないものなのだから少し開き直るくらいがちょうどいいんだぞ」と自分に言い聞かせていくことが大事なのだと思う。
天はいつか崩れ落ちてくるかもしれないが、そこであなたにできることはないのだから、せいぜい天が落ちてきていないことに感謝して日々を謳歌すべきなのだ、と。
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どうにか記事を着陸させることに成功した。
2時間で1600文字と相変わらずの遅筆だが、きっと速度は習熟度に比例するだろうと信じている。
時に、この記事はツイキャスで配信しながら執筆していた。
初配信ということで今後の課題点がいくつか挙がったので備忘録として残しておこうと思う。
①棒読みちゃんの修正(クリップボード連携をうまいこといじって、コピペを読まないようにする・コメントだけを拾えるようにする)
②obsの修正(PCの通知音など、棒読みちゃん以外の音が入らないようにする)