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嘘は罪

子どもの頃、ぼくはひどいウソつきでした。

正確には空想癖があって、ありもしないことを次から次に考えてしまうのです。空想と現実の区別を、自分のなかではつけているのですが、空想とことわらずにシームレスに口に出してしまうので、結果的にウソをついてしまっていたのでした。

たとえば、友だちと遊んでいるとき、野原に茂っている雑草を指して、

「これ薬草なんだよ。傷口に貼ると血が止まるんだ」

と話す。友だちはへぇ、そうなんだ、リキオくん物知りだね!とか言ってくれるのですが、これがまるでそんな事実はない、真っ赤なウソなのです。ウソというか、空想。それが事実でないことは自分でもわかっているのに、なぜか普通に口に出してしまうのでした。

今の自分から見たら、そんなことしてるといつかバチがあたるぞ!としか思えないのですが、なぜか罪悪感はまったくないのでした。けれども、ある日、ちょっと小規模なバチが当たったのです。

小学生低学年の頃だったと思います。友だちと遊んでいて、ぼくは用水路にかかる橋を渡っていました。橋といっても、せいぜい2メートルほどの幅の用水路にコンクリートが渡してあるだけのもので、柵もなにもありません。子どものことなので、よせばいいのにそのギリギリ端っこを歩いていたら、足を踏み外して落ちました。

水面までは1メートル少しくらいあったのではないでしょうか、たぶん落ちても死にはしなかったと思いますが、その瞬間は「死んだ」と思いました。小学生の体感ではグランドキャニオン級の高さだったのです。一世一代の力が発動して、ぼくは橋に両手でつかまり、ぶらさがりました。後にも先にもあんなアクションができたことはありません。小学生の体感ではセガール級のスタントでした。

友だちが慌てて引き上げてくれ、死なずに済んだのですが、落ちたときに、コンクリートで擦ったようで、半ズボンからむき出しのぼくの足は一面に擦り傷ができ、血がにじんでいました。

「待ってて!」

それを見た友だちが走り出す。大人でも呼んできてくれるのかと思ったら、かれがしてくれたことは――

ぼくが「薬草」だとウソを教えた草を摘んできて、傷口に貼ってくれたのでした……。

ああ、ごめん……。それウソなんだよ……この草貼っても血は止まらないし……。心のなかで後悔しました。

だからというわけではないのですが。それから長い年月が過ぎ、大人になったぼくは、どちらかというとウソが嫌いな人間になっていました。空想癖はなくなってはいませんでしたが、空想は心のなかにとどめるすべを身につけていましたし、大人が操る方便としてのウソはむしろ下手な大人になっていました。

子どもの頃の罪をあがなうように、たとえ自分に損や不利益があったとしても、ウソを言わないし、言えない。
良く言えば正直ということだから、良いことではあるんでしょう。ただ、ひとつ大きな問題があって……、大人になったぼくは、ゲイであることを自認していたので、自分のライフスタイルについては、あまり大っぴらに、明け透けに語るのは難しいと感じる場面が多かったのです。ここに至って、ウソつきなほうが都合が良かった。でも。

そんなときも、ぼくはウソはつきませんでした。

あるとき仕事関係の飲み会で、恋愛や結婚の話になりました。ぼくはその手の話題のときはじっと黙って話題が過ぎるのを待っていることが多かったのですが、その日は会話の矛先を向けられてしまいました。

「リキオさんはお付き合いしている人はいないんですか?」
「いないですね~」
「つくらないんですか?」
「いやあ、あんまり……」
「どうしてですか?」

いや、掘り下げないでよ。そこは空気読んで!と思ったのですが、なかなか引き下がってくれません。

「もしかして、過去に強烈な失恋の経験があって引きずってるとか?」

なにその憶測!と思ったのですが、あながち、そういう経験がないでもなかったため、ぼくはつい、

「実はそうなんですよ」

と言ってしまったのです。

「そうなんですね! どんな人だったんですか?」

だから掘り下げないでほしかったのですが、子どものころのウソつきっぷりがそれこそウソのように、ウソがつけない体質になっているぼくは、問われるままに、

「同い年で……よく一緒にクラブに行ってて……」

とかなんとか、全部、本当のことを喋ってしまいました。だってウソがつけなかったから。

「へええ、なんの仕事をしてる人なんですか?」
「医療系……」
「あっ、看護師さんですかぁ~」

本当は、その男は医師でした。でもぼくはウソはつかなかったです。ただ相手が思い込んだというだけで。
さいわい、そのへんで、他の人に話題が移り、事なきを得たのですが、あとからよく思い返してみると、

「同い年のナース女性に片想いしていたが、フラれたせいで恋愛に臆病になってしまった男」

という設定を背負わされてしまっていることに気づいて、めちゃくちゃ恥ずかしい気持ちになりました。

本当はそんなセンチな話じゃなくて、ヒゲでマッチョの医者のゲイ友達がいて、ゲイナイト(※ゲイ向けのクラブイベントのこと)によく一緒に行ってるうちに、こいつと付き合いたいな~と思って告ってみたけど、相手の好みがブサカワ系だったので付き合えなかった、でも何回かイチャイチャしたけどね!というくらいの、よくあるエピソードなんです。

このとき、しかし、ぼくはウソはついていません。相手が男性だとは言わなかっただけで。でも、ウソはつかなかったのに、結果的に、ウソをついたことになってしまった。でもこういうウソなら、今に至るまで何回も何回もぼくはついている。

好きなタレントは誰か。どんなAVが好きなのか。結婚はしないのか。

ウソつきだった子どもは、もうウソは言わないけれど、本当のことを言わないことで、ウソを創り出して生きるようになってしまっていました。結局、ぼくはまだ、ひどいウソつきのままじゃないか――、そのことに気づいたときは、すこし落ち込みました。

ウソはつきたくないのに、ウソをつかざるをえず、ウソがつけないのに、ウソをついたことになってしまう。これはなんの罰なんだろう。

それからさらに月日が流れ――、状況はなにも変わっていません。ただ、ぼくもさらにすこし歳を重ねたので、人とのコミュニケーションで上手に間合いをとる方法には、あの頃よりは長けたのだと思います。不幸で恥ずかしい自然発生的なウソはずいぶん減りました。世の中の空気がだいぶ変わってきたことも無関係ではありません。

どうかこれからも、ウソをつかずに暮らしていけますように。

あのとき、ぼくの傷に「薬草」を貼ってくれた友だちにも、いつか謝りたいと思っています。

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