見出し画像

ポリコレの損益分岐点

最近、映画などが過度のポリティカルコレクトネスによって表現の幅が狭まっているのでないかと懸念している人が多いようです。一方で、「ポリティカルコレクトネスに配慮したことでヒットした」とまことしやかに囁かれるヒット作の存在もあります。

映画などの商業作品とポリティカルコレクトネスについて、考えたことを書きました。

注:ぼくはポリティカルコレクトネスを「ポリコレ」と略すのはできるだけ避けたいと思っています。「ホモ」などがそうであるように、略称がその概念を軽んじたり嘲ったりするニュアンスを生じさせることがあるからです。この記事のタイトルはわかりやすさとSEO的観点からポリコレとしましたが、本文はすべて略さずに記述します。

「ポリティカルコレクトネスによって作品が良くなるか、ダメになるか」

いきなりなんですが、質的な意味での良い/悪いって、定義できないと思うんです。そこで、商業的に成功するか/失敗するか、という観点で考えたいと思います。

ものすごく単純化したモデルで考えていくことを許してください。

ここに、1億人の人々がいるとしましょう。そこに、「ヒット率20%」の作品を投下します。「ヒット率20%」の作品とは、触れた人の20%がファンになるポテンシャルの作品だとします。

すると、この作品は1億人のマーケットから2,000万人のファンを獲得します。

スライド1

この作品に、「ポリティカルコレクトネスな配慮」を施したらどうなるのかを仮定してみます。この配慮が具体的にどういうものかは考えません。ただ、どんなものでもそうであるように、この「配慮」が良い意味で響く人と、そうでない人がいます。ここでは次のように想定します。

A層:「ポリティカルコレクトネスな配慮」があることを好まない人たち
B層:「ポリティカルコレクトネスな配慮」があることを好む人たち

この言い方はちょっと危険ですが、それでもやはり、どちらかと言えば、A層がマジョリティだと思います。なので、A層とB層は、世の中において、3:1の比率で存在することにしましょう。

1億人のマーケットには、A層が7,500万人、B層が2,500万人含まれることになります。

そして、ある作品の「ヒット率20%」は、 「ポリティカルコレクトネスな配慮」を施したことにより、

A層に対しては半減(ヒット率10%)
B層に対しては倍増(ヒット率40%)

するとして考えてみます。

そうしますと、1億人のマーケットに対して、

A層:7,500万人×10%=750万人
B層:2,500万人×40%=1,000万人

となり、合計で1,750万人のファンを獲得します。……あらら、当初、2,000万人だったファン数が減ってしまいましたね。つまり、この作品については、「ポリティカルコレクトネスな配慮」を施さないほうがよかった。失敗したのです。

スライド2

では次に、こう考えてみましょう。

もしも1億人のマーケットに、A層とB層が均等に、5,000万人ずつ含まれていたらどうでしょうか?

この場合は、

A層:5,000万人×10%=500万人
B層:5,000万人×40%=2,000万人

合計で2,500万人のファンを獲得でき、当初よりファン数を増やすことができました。これなら成功と言えます。

スライド3

A層=マジョリティ、B層=マイノリティと仮定するなら、世の中全体で見ればA層の比率が高いです。しかし、そもそもひとつの商業作品を、全人類に向けてターゲッティングすることはないし、そうしなくても商業的には成立します。つまり、ある程度、市場はセグメントし、選ぶことができます。

もうおわかりと思いますが、B層が多く含まれる市場に投下するほど、「ポリティカルコレクトネスな配慮」を施したほうがヒットしやすい、ということになります。その逆もまた。

立ち戻って、「ポリティカルコレクトネスに配慮したことでヒットした」映画があるのだとすれば、ここでいうB層が多くいる市場を狙っていたか結果的にリーチした、ということなのでしょうし、「過度のポリティカルコレクトネスによって表現の幅が狭まっているのでないかと懸念している人」は、それにより商業的に失敗する作品が増え産業が縮小するのが不安なのでしょう(もしくは単にポリティカルコレクトネスが気にくわないか)。

実際には、そう単純にA層/B層を分けることができず、できたとしても狙い通りにリーチさせられるとも限らず、ヒット率の半減/倍増というのもコントロールできるものでないです。その意味で、このモデルになんら実用性はないのですが、ぼくが言いたいのは、

商業作品については、ポリティカルコレクトネスには理論上の損益分岐点が想定される

ということです。
そのため、ポリティカルコレクトネスな配慮を施したことによって作品が良くなるか悪くなるか(≒この記事では商業的に成功するかどうか)という問いの結論は「一概には言えない」というつまらないものになります。市場その他の条件によって損益分岐点を超えたかどうかによって成功・失敗は決まる――それだけです。

創り手の立場に立てば、「配慮を行うかどうか」は、経済合理性の観点から判断することになります。ビジネス的にはそれが正解。でも本質的には、そんな理由で「判断」してはいけないのです。

なぜなら、ポリティカルコレクトネスは、過渡期に行われる対処療法にすぎないからで、憲法ではないからです。世界を、今はそうなっていないフラットな状態に均すために動かしている重機であって、土台が完成すればお役御免となって退場すべき。でも、今はそれが必要なプロセスだから、導入するかどうかの「判断」をする必要はなく、導入すればいい。というかしなくてはならない。でも実際には、するかどうかの「判断」をせざるをえなくなっている。そこが課題なのだと思います。

ぼくの考えは以上です。

 *

以下は蛇足なのですが、「差別をなくそう」というのは建前上は「論を待たない」のであって、純粋に言葉通りの意味では反対意見はないはずです。にもかかわらず、なかなかそうはなっていないことを指して、差別は人間の本能だから……みたいに言う人がいますが、ぼくは経済合理性の問題が大きいと思っています(それを本能というならそうかもしれませんが)。

差別をする人は、差別しないことが本人のなかで損益分岐点を超えていないだけでしょう。

仮に、同性婚を導入するかどうかの国民投票が行われ、ありえないですけど賛成した人には10万円が給付されます、となったら、かなりの人が賛成するだろうと思います。いいや金などいらん、同性婚なんか認めん!!と言える人がどれくらいいるか見ものですが、その人たちも、10万円が100万円、100万円が1,000万円になればどんどん態度を変えていくはずです。もちろんぼくだって、1億円積まれたら反対するかもしれないですしね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?