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【観劇】 NODA・MAP『逆鱗』

2016.2.19
NODA・MAP「逆鱗」
作・演出 野田秀樹
松たか子/瑛太/井上真央/阿部サダヲ/池田成志/満島真之介/銀粉蝶/野田秀樹

その姿を、潜水艦の窓の外から私は見ていた。
私は、あなた方の体の咽頭と呼ぶ部分から喉頭と呼ぶ部分へと続く筋肉の半ば手前で、音を出したくなった。
それがたぶん、あなた方にとって「泣く」ということだ。
鳥も鳴く。
虫も鳴く。
でも魚は泣けない。
泣くためには空気がいる。
あなたたちが生きるために空気が必要なように、泣こうと思った人魚は気がついた。
海面から顔を出して初めて泣き声を出すことができる。
けれども海の底から、海の面までは、塩で柱ができるくらい遠かった。
だからやっと海面に出て、泣き声を出せたその時は、嬉しさのあまり、人魚の泣き声は甘く清かな歌声に変わった。
歌声はやがて紅葉のように海面に落ちては、鉛に包まれた泡に変わり、海底に沈んでいく。
その泡になった歌声を追って、人魚はまた潜る。
深く深く潜る。
そして暗く深い海の底ひで思う。
なんで私は歌っていたの?
なんで私は泣こうとしたの?

松たか子扮するNINGYOの口から発せられる、冒頭の台詞。
まるで美しい詩を聞いているかのように、「言葉」というものに引き込まれる。

『MIWA』『エッグ』につづき、3度目のNODA・MAP公演の観劇。
野田秀樹作品は、自分にとって、物事を深く考える機会を提供してくれる。
だから今回も、美しい人魚の物語で終わるとは、思っていなかった。

前半は、野田秀樹の楽しい言葉遊びシーンが多く、後半の芯に触れる部分はとても短く感じた。
短いからといって、詰め込んだ感じや、省いた感じは無く、寧ろ適切であった。
何よりも、実は前半部分に多くの繋がりある「言葉」が潜んでいたことに気付いたのは、終演後であり、全てが繋がった時、すっきりした気分よりも恐ろしさを感じた。

『エッグ』では、エッグというスポーツを比喩とし、「戦争と隠された真実」が描かれており、日本という国で「無かったことにされている出来事」が沢山あるという気付きに、恐怖を感じた。
今回の公演では、「人魚」という比喩表現(もはや比喩表現ではないかもしれないが)で、「戦争と次第に忘れ去られる真実」が語られており、恐怖を感じた。
何故ならば、確実に日本はまたこの道に近づいているような気がするから。

かつて「お国のために」と言って戦争をしていた時、皆がみなそう思い、指示に従い死んでいった訳ではない。
こういった本音が、松たか子や阿部サダヲの口から発せられる。

余りの恐怖に、流れる涙を止めることは出来なかった。
可哀想と思う感情ではなく、本当に怖いという想いの涙であった。

今までこの世に起こった話、それが、フィクションであれノンフィクションであれ、忘却された話がどれだけあるだろう。
それを思うと、職業柄、眠れなくなる。
本来ほとんどの話が消え去り忘れ去られてしまうのに、「書く」という生業は、つまり「わざわざ書く」ということは、「わざわざ選んで残す」ということでもある。

と、野田秀樹は語る。
忘れてはならない、繰り返してはならないと強く感じた。

声を上げて立ち上がる人が多くいる。
それもよし。
けれど、それだけが美徳ということでもない。
自身の中で考え、感情を絡ませ、様々な視点で新たに物事を考えていくことも、一つの方法である。
今まで戦争に対して、あまり思いを巡らせず、考えることも少なかったが、今この瞬間にこの作品に出逢えたのは、自分にとって新たな視点を増やす重要な出逢いだったのだと思う。

NINGYOの台詞によるラストシーン。

それから、この男に、最後に一度だけ大切にしてもらった人魚は、魂のように男のそばから離れて海に溶けた。
そして、最後に肺の中にある浮袋の話をしたまま、喋らなくなった男の横顔を見た。
メメント・モリ、死を思えと、あなた方は、軽々しく言う。
だが、お暗く果てしなく深き海の底で一人、「死」を思うことは、この男にとって、それほど生易しいことではなかったはずだ。
この男の体はここで朽ちて魚につつかれ、魂もここで朽ち果てるだろう。
そして誰もがこの水底の男を忘れるだろう……私は、どうしよう?
私は、この水底に引っかかったままの、死んだ男の「時間」をどこへ連れて行ってあげよう……
私の咽頭部から喉頭部へとつづく、少し手前の筋肉から、音のようなものが出て……見上げると……水底から海面に向かって……塩の柱が立った。

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