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中村彝作品の初期コレクターたち

 中村彝のコレクターとして有名なのは、今村繁三と伊藤隆三郎、そして洲崎義郎の三人だろう。

 彝が内面を告白した最も親密な書簡を取り交わしたのは、おそらく洲崎とだろうが、資金面での現実的な援助が多かったのは今村と伊藤に違いない。

 彝が大正13年のクリスマス・イブに亡くなって、早くも翌年3月に遺作展が画廊九段で開かれた。既に当時の目録には66点の作品がリストアップされている。

 内訳は洲崎が17点、今村が11点、伊藤が9点の出品であった。他に所蔵者名が明らかにされている作品が11点、それが明示されていない作品が18点である。

 以上のとおりであるから、その展覧会の出品作品の中核を成すのは、これら3人が持っていた作品だったと言ってよいだろう。この遺作展は、まさに彼らのコレクションを中心にして成り立っていた。

  これまでも、彝の伝記や書簡などから、例えば今村が、「海辺の村」や「エロシェンコ氏の像」などを手に入れていたであろうことは知られていたが、更に具体的に彼らがどのような作品をコレクションしていたかは、あまり詳しくは分からなかった。しかし、この遺作展目録によって彼らが持っていた作品のタイトルだけはある程度分かるようになるのである。

  しかし、大正14年の遺作展の目録自体、今日では入手が非常に困難なものであり、その上、そこには写真図版が付いていないので、「少女」とか「静物」などと一般的な名称のタイトルが記されていても、それがどの作品を指示するものか、はっきりしない。

 そこで、ここでは昭和16年3月、銀座青樹社で開催された「中村彝回顧展」の図録と、同年に公刊された森口多里著『中村彝』の図版とを比較対照して、そこから遺作展出品作品の所蔵者にさらに具体的に探ろうと思う。

  回顧展図録と森口本はいずれも彝歿後20年にも満たない戦前に公刊され、図版付きで載っている。しかも、コレクターたちは、世界恐慌の影響を受けながらも、(コレクションを手放すにしても)辛うじて散逸を避けた痕跡が、これら昭和16年の著作物に残されているかもしれない。そのことも期待しつつ検証してみたい。

 すなわちここで紹介するのは、(1)遺作展目録、(2)図版付きの回顧展目録、そして(3)森口多里著『中村彝』の作品図版の比較対照によって得られた彝作品の初期の所蔵者に関する考察である。

 先ず(2)回顧展図録と(3)森口本の図版を比較対照して最初に気づくことは、(2)には、洲崎蔵の表示のある作品が見当たらないということである。さらに、ここには今村の名も全く明示されていない。が、回顧展図録には某家蔵となっている作品が9点ある。ここで、某家蔵となっている作品は、実は今村蔵の作品と見做せるものである。なぜなら、ここで某家蔵となっている作品は、同じ年の森口本で全て今村蔵となっていたからである。

 また、実は(2)では、伊藤の名も全く出て来ない。つまり、洲崎・今村・伊藤の重要な3人の名前が出てこないのだが、とりわけ伊藤の名前がないのはなぜだろう。伊藤は既に昭和16年の時点で彝の作品をかなり手放したのであろうか。

 どうもその可能性はあるかもしれない。なぜなら、(2)では、高島家が彝の作品を9点ほど出品していることが明示されており、この高島氏が伊藤の彝コレクションの多くを買い取ったのではないかと思われるふしがある。(実際、伊藤と特にその親族の経済的環境は、よからぬ事件も起こって、昭和初期には暗転していたようである。)

 と言うのは、明らかにかつて伊藤が持っていたはずの作品が、高島蔵の作品に含まれているからである。

 旧伊藤蔵の作品は、(1)遺作展目録には写真図版がないので、原則的には(2)回顧展図録や(3)森口本で高島蔵となっている作品と比較対照することができないのだが、特徴的なタイトルから明らかに伊藤蔵の作品だったものが高島蔵の作品に含まれていることは分かるのである。例えば「ステーションの雪」、「椅子によれる女」などの特徴的なタイトルの作品は明らかに伊藤から高島に移動した作品と分かる。こうした事実から、高島蔵の他の一般的なタイトルの彝の作品も、あるいは伊藤蔵の作品から引き継がれたものではないかと推測するのもあながち飛躍とは言えないだろう。

 ただ、(1)遺作展目録で伊藤蔵になっている「友の像」は、(2)回顧展図録に出品されておらず、(3)森口本では所蔵者名が明示されていない。

 一方、俊子を描いた愛知県美術館の「少女裸像」もタイトルから判断すると、かつて伊藤蔵から高島蔵に移った作品のように見える。

 (2)回顧展図録と(3)森口本にある高島蔵の「読書」は、(1)遺作展目録に載っていないが、あるいはこれも伊藤蔵の作品だったのかもしれない。

 また文展出品の中村屋蔵の「少女」(今日では文展目録に従って「小女」表記されることが多いが、どんなものだろう)も、なぜか(2)回顧展図録と(3)森口本に高島蔵とある。この記述に間違いないなら(註:森口本では俊子を描いた文展出品の「少女」と大正博出品の「少女裸像」の出品歴を相互に取り違えている)、この作品も、かつては伊藤蔵だったということだろうか。さらには、今日、横須賀美術館にあるやはり俊子を描いた「少女習作」(回顧展図録11=森口本16)も高島蔵とあるから、これももとは伊藤蔵だった可能性がある。
 このように伊藤は、俊子を描いた重要な作品を複数持っていた可能性があるのである。(しかし今日メナード美術館にあるやはり俊子を描いた「婦人像」は、今村蔵の作品であったことが窺える。)

 では、このように彝存命中にはその作品の所蔵者として名前が出てこない高島氏だが、伊藤蔵の重要な作品を多く所蔵するようになったと思われるこの高島氏とはいったいどのような人物なのだろうか。

                  * *

 中村彝作品の初期コレクターとして、今村・伊藤・洲崎に次いで、高島なる人物が現れた。それは、昭和16年の(2)中村彝回顧展図録や同年に公刊された(3)森口多里の本を見ると確認できる。
 しかも、それは、1点2点にとどまらない。さらに、高島家のコレクションとされている作品にはかなり重要なものが含まれていた。
 それは、高島なる人物が伊藤隆三郎のコレクションを受け継いでいるからではないか。
 さて、この高島なる人物とは誰だろう。

 本稿では、それは、中国美術のコレクションで名高い高島菊次郎のことではないかと思うのである。 

 「高島菊次郎氏(1875~1969)は、日本の製紙業界に大きな貢献を残しました。またそのかたわら、50歳を過ぎた頃から老子・荘子を中心に漢学を研究し、書画に関する関心を次第に深め、中国書画の収集に力を注がれました。その収集品は、早くから高島コレクションとして内外に喧伝され、その分野の研究に果たした功績はきわめて大きなものがあります。」
 
 上に引用したのは、東京国立博物館が2005年に展示した中国美術に関連した「高島コレクション」の紹介文章からの一節である。 ここには高島が、洋画家たち、特に中村彝の作品もコレクションしたなどとは一切書かれていない。けれども、彼が製紙業界に大きな貢献をしたという部分に注目されたい。
 実際、製紙業界が彝の作品を所蔵していた証拠は今日においても確認できる。 
 例えば明治44年作の「読書」や、<大正八年六月彝>の年記と署名のある優れた作品の「静物」がそうした製紙業界に関連した作品である。
 では、この2作品は、伊藤蔵として大正14年の遺作展に出ているかと言えば、それは出ていない。伊藤がこれらの作品を持っていたが出さなかったのか、持っていなかったから出なかったのかは今のところ分からない。 
 また、遺作展51番の、ルーベンスから自由に部分模写した彝の小品「水浴の女」は、伊藤蔵であったが、これが、高島コレクションに一時的に入ったかどうかもまだ分からない。
 一方、「ステーションの雪」や「椅子によれる女」のように明らかに伊藤から高島に移った作品があることも確かである。

 このようなわけであるから、伊藤蔵の彝作品が全て直接に高島コレクションに入ったのかは、まだ十分には確認できているとは言えないかもしれない。
 けれども、高島菊次郎は、王子製紙で高橋箒庵の後を継いだ人物であることも注目すべき事実である。 
 高橋義雄箒庵は、水戸の出身で彝の支援者の一人である。彝没後シスレー模写が鈴木良三氏によって箒庵に届けられた。
 だから高島菊次郎が高橋箒庵などから聞いて水戸の画家彝の名前を以前から知っており、その作品を伊藤などからまとめて買い取ることがあったとしても不思議ではなかろう。
 むしろその可能性は、これまで述べた様々な状況から、かなり大きいと言えるのではなかろうか。

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