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中村彝と白河の伊藤隆三郎(抱月庵)

 白河の伊藤隆三郎は、中村彝より2歳若いが、その生没年は、意外に知られていないようだ。ネットを検索しても、生没年までは辿り着けなかった。
 一方、伊藤抱月庵は、実は隆三郎と同一人物なのだが、そのことも、2023年10月現在、まだネット上では、確認できないだろう。
 さらに厄介なことに、伊藤抱月庵を幾つかの大きな茶道辞典などで検索してみると、生没年の生年が大きく誤っており、白河の伊藤隆三郎と抱月庵とは別人物の兄弟親戚なのかと、思わず疑ってしまうほどだ。
 すなわち、私は図書館の司書さんの力を借りて『新版茶道大辞典』(淡交社)、『角川茶道大辞典』、『原色茶道大辞典』、『現代物故者事典総索引』などを確認したのだが、いずれも大辞典などにおける抱月庵の生没年は同じで、《明治32年〜昭和45年》となっており、彼の本名は記されていなかった。
 だが、中村彝の研究者からすれば、伊藤隆三郎は、そんなに遅い明治32年に生まれているはずはない。もし、大辞典の記述通りとすれば、明治20年生まれの20代の中村彝は、10代の友人であり支援者である隆三郎と手紙のやり取りを始め、作品の売買に関わっていたことになってしまう、だから抱月庵は別人物かもしれない、そう考えるだろう。
 30代の芸術家が20代の支援者に金銭的な支援を受けることならあり得るだろうが、支援者が10代半ばほどというのは普通はあり得ないことである。
 だが、中村彝と伊藤隆三郎との交流を知っていれば、茶道辞典などにおける抱月庵の生没年は、大きな間違いかもしれないと思うはずだ。
 どうしてそんな間違いが起こるのか、思うにそれは、後から出た茶道辞典が、古い辞典における生没年などの記述を確かめないで、そのまま書き写しているからだろうとも察するはずだ。
 伊藤隆三郎(抱月庵)の生没年は明治22年〜昭和45年が正しい。
 そのことを印刷物で最初に教えてくれたのは白河市歴史民俗資料館の加藤純子さんの論文「中村彝と伊藤隆三郎」1999だろう。加藤さんは茶道辞典などに見られる誤りを指摘しているわけではないが、彝の研究者におそらく初めて正確な生没年を提示してくれたのだと思う。
 伊藤隆三郎が、後に茶道の宗匠伊藤抱月庵として活躍したことを彝研究者に初めて記したのは、鈴木良三氏だが、生没年までは詳しく書いていなかった。
 私は隆三郎(抱月庵)の生年を彼の珍しいある著書の奥付から確認した。そして、やはり大辞典などが10年遅く生まれたように記述していたことを知った。
 茶道大辞典などの執筆者には、抱月庵に相当に親しく接していた人もいたはずだが、意外にも大切な生没年などの記述を疎かにしてしまうものだと思った。
 そして彼の本名も中村彝との交友関係もどれもまったく記していなかった。(続く)
 
 
 


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