雨宮雅郷とは誰
中村彝のある展覧会図録では明治41年2月とされる写真があって、同じ写真は彝関係の様々な文献に見出すことができる。7人の若き画家仲間が写っている写真で、そこは、撮影年がそのとおりなら、太平洋画研究所の教室ということになろうか。
前列に左から高野正哉、白山仁太郎、中原悌二郎、鶴田吾郎、後列に雨宮雅郷、彝、野田半三の7人である。
彝は、明治39年の秋に本郷菊坂の白馬会第二研究所から赤坂溜池の白馬会研究所に転じ、中原、鶴田、高野、広瀬嘉吉を知る。そして更に40年3月から、鶴田、広瀬、高野、中原らを追うように太平洋画研究所へ移った。
さて、その7人の写真だが、このうち、特に雨宮雅郷という人物は、その生没年や作品などを含め、ほとんど何も知られていない。この写真のキャプション以外、彝との関係も言及されることがないと思われる。
しかし、雨宮の名は、中原悌二郎が残した明治40年1月1日から43年8月26日までの「青春時代の日記」(中原信『中原悌二郎の想出』)の中には、時折り現れる。なので実在の人物には違いない。主に中原が太平洋洋画会に移る前に彼の名が出てくる。
例えば明治40年1月15日には、「午後雨宮氏とスケッチに虎の門近辺をあさり歩き、数葉を得。」
翌日にも「十時雨宮氏、白山氏等と虎の門の近傍に於て水彩の写生をなす。」
同22日「雨宮氏、白山氏等と葵橋に於て思ふままスケッチに筆を走らす。」
2月3日には、高野、鶴田、雨宮、白山、中村、野田らの名前が出てくる。「午後八時雨宮、白山のニ氏辞し去り、残るは余と中村氏と野田氏と、当の主人公たる鶴田氏のみとなりたり。談又愈々神境に達して、神気言ふべからず。」
明治43年6月10日の日記にも雨宮の名が出てくるが、今のところ、彼について知りうるところはざっとこのくらいだろうか。
鶴田吾郎の『半世紀の素描』にもこの写真は掲載されている。そして雨宮の名が雅郷であることは、確かめられる。
しかし、先に引用した『中原悌二郎の想出』に掲載されている写真では、野田半三と雨宮雅郷とが取り違えられており、さらに雨宮雅郷とすべきところが、雨宮美文となっている(本記事冒頭写真)。これは、雨谷美文の名と混同しているのであろう。が、雨宮雅郷と雨谷美文とは別人物であり、雨宮美文なる人物は存在しない。さらにこの本の別の写真でも雨宮美文となっているところがあるが、これは長谷部英一と思われる。
かくして、雨宮雅郷の写真も7人のなかの一人として写っているもの以外見当たらないのである。
鶴田吾郎によれば、その略年譜に白馬会同期の広瀬、白山、高野、雨宮、中原、後から入った彝らを「7人組と称し交遊す」とある。そして鶴田は明治39年の秋に太平洋画会に移る。
ついで広瀬、高野が続き、中原、中村も太平洋画会に移る。中原が太平洋画会に移ったのは明治40年2月17日からであり、彝は3月からである。
7人組については、梶山公平氏の著によれば、5人組の彝、中原、鶴田、広瀬、高野に加えているのは、野田と堀進ニである。このように「後年鶴田は語っていた」と梶山氏は述べているが、先の鶴田の言う7人組とはやや異なったメンバーとなっている。
広瀬は、先の7人の写真に写っていないが、5人組には間違いない。
写真に写っている7人のなかで情報量が少ないのは、雨宮と白山、特に雨宮である。(高野については、本の装丁、カットなどの仕事も手掛けていることが知られている。鈴木三重吉の『三重吉全作品集』や『ホトトギス』など。)
彝と悌二郎に触れた後、「この他にむっつりと素朴な描き方をしている広瀬嘉吉、浅草の米屋の息子だった白山仁太郎、土佐の人間で川端玉章のところで日本画をやっていたという高野正哉、それらの数人がいつの間にか1つのグループになって時々各自の家で集まるようになった」と鶴田は書いているが、ここでも雨宮についてはなぜか触れていない。太平洋に移る時も、なぜか雨宮の名をあげていない。7人の写真が明治40年2月ではなく、ほんとうに明治41年2月撮影のもので、太平洋の教室で撮られたものとするなら、雨宮も一緒に移ったことになるが、鶴田著の本文では明示されていないのである。
雨宮の名が雅郷となっているのは、日本画でも描いていたのか、雅号のように見えるが、生没年も出身地も分からない。詳しい情報が知りたいものである。
なお、鶴田が「時々各自の家で集まるようになった」と書いているが、その様子は悌二郎の明治40年1〜2月の日記に窺えるものであろう。それは、太平洋に移る少し前の状況であった。