中村彝の少女像と伊藤隆三郎(1)
大正3年の第8回文展(10月15日〜11月18日)に出品された中村彝の代表作とも言える所謂「小女」について、彝のパトロン伊藤隆三郎は、これを欲しがっていたようである。
この作品は、モデルが新宿中村屋の娘・相馬俊子であるから今日、中村屋蔵になっているのかと思われるかもしれないが、調べてみると、どうも当初からそうだったわけではなさそうである。
彝の没後、間もない大正14年3月1日〜15日まで画廊九段で開かれた「中村彝遺作展覧会目録」によると、伊藤隆三郎が持っていた彝の作品で俊子を描いたと思われる可能性がある作品は、目録番号15番の「少女裸像」と19番の「少女」であろう。
しかし、当時の目録には写真図版がなかったので、10点以上ある彝が描いた俊子像の中で、伊藤が持っていたであろう俊子像は、何であり、それが複数の場合、そのうちどれが出品されたのか、はっきりとは解らないはずである。
いや、それどころか、当時の目録は厳密性を欠きミスプリントなどもありがちだから、伊藤が彝の重要な作品である俊子像を本当に持っていたのだろうかと、疑念を抱く人もいるかもしれない。
だが、昭和59年発行の『中村彝画集』の「中村彝作品目録」では、その根拠は示されていないものの、伊藤隆三郎が大正14年の画廊九段における「遺作展」出品した「少女裸像」と「少女」とは、それぞれ大正3年の大正博覧会と文展に出品された作品と見做されている。
つまり、そこでは、彼は2点の最も重要な俊子像の最初の所蔵者となっているのである。
これは、本当にそうなのであろうか。その根拠となるものは何なのだろうか。
そこで、これを調べてみると、まず、伊藤隆三郎が、彝の描いた真正な俊子像を少なくとも1点を欲しがっていたことは、彝が書いた伊藤隆三郎宛の毛筆書簡2通(茨城県近代美術館所蔵)から裏付けできることが分かった。
すなわち、大正3年の文展がはじまって早々、10月20日の手紙(『藝術の無限感』未収録)に彝は書いている。
「御申越の絵は(俊ちゃんの肖像)は残念ながら或は駄目ではないかと思います。一昨々日仙台の岩井という人から希望されて値段も問合はして来まして取り敢えずその返事を出して置きましたから先方に異存のない限り既に(文展)売約になって了って居るのではないかと思ふのです。然しまだ確定した訳でもありませんから今三四日もしたらシッかりした御返事が出来ると思って居ります。」
この手紙によって、少なくとも伊藤は、まさに第8回文展に出品された俊子像を入手したがっていたことが明瞭に解る。
だが、そこには、「仙台の岩井という人の」先約があったのだ。
手紙を受け取った伊藤は、次にどうしたろうか。また、その結果はどうなったろうか。それは、彝が9日後、同年10月29日に書いた次の毛筆書簡を読めば見当がつくかもしれない。(続く)