「法の支配」と「法による支配」
松尾陽氏が朝日新聞に書いた憲法季評(2022-1-13)を興味深く読んだ。
そして、「法の支配」と「法による支配」は、日常生活レベルでは同じ意味と考えられるが、法学者の世界ではこれがまったく違うものだということを初めて知ったような気がする。
「法の支配」とは、欧米流の法システムの理念であり、「法による支配」とは旧共産圏などの国々がとっている権威主義的体制の裁判システムに対応した言葉と考えると分かりやすいようだ。
すなわち「法の支配」とは、「どんな為政者も法に拘束されるということである。その法には自らが制定した法も含まれる。」
つまり、たとえ自分が作った法でも、王様のように、その意味を自分で自由に決められるという理屈はありえないのである。
与党が案を出した法でも、実はその意味はこうだと後から主張しても通らないのが「法の支配」だろう。
では誰がそれを決めるのか。それは、「理由」によって法を解釈適用する裁判所であると松尾氏は言う。
「真実の見え方が人々によって異なり、また、絶対的な権威が原理的に否定されている民主的な社会では、真理や正義は当事者たちの議論の中で形成されていく。」しかも公開の場で形成されるのだ。
上記の松尾氏の言葉、これは覚えておこう。「真実の見え方」か、これは確かに人によって大きく異なることがあり、私もその見え方の不一致によって、何度も心を掻き乱されたことがあるので、この言葉は沁みる。
しかし、権威主義的体制の国では、法はまさに「為政者が発する命令」に近いものであり、何が真理であるかも、時の為政者が、決めるのであろう。これが「法による支配」と思われる。
だからこそ、時の為政者は、悪法であってもさっさと法として成立させてしまうのだ。いったん成立してしまえば、それによって人々をさらに強固に支配できるからだ。
何とか決議などというのも、為政者から独立した裁判所が筋道立てて書く「理由」や「理性による統治」でなく、まさに真理や歴史(の意義)を権威主義的な為政者が自ら判断して決めようとしている最たるものではなかろうか。
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