ラファエル・コランの「フロレアル(花月)」とは
三浦篤『移り棲む美術』を読んで、ラファエル・コランの研究が進み、その作品に高い評価が与えられていることをあらためて知った。
かつては、土方定一や匠秀夫らの著作に見られるように、黒田清輝やその師であるコラン芸術への評価は、それほど高いものではなかった。いや、むしろ反アカデミックな論調が目立っていた。その権力的弊害も説かれていた。
わたし自身は、コランや黒田の絵画作品そのものに今も心酔するには到ってない。が、美術史上の研究がこのように進展していくことに、もちろん異を唱えるものではない。むしろ喜ぶものだ。
さて、コランのよく知られた作品「フロレアル(花月)」だが、果たしてこの括弧内は何と読むのだろう。これにちょっと迷った昔話。
フランス語の語彙に明るい人なら、「フロレアル」に、括弧を付けなくとも、その意味は明瞭なのかもしれない。
しかし、このカタカナ語だけでは、意味が分からないだろうと、ある時、誰かが親切にも「花月」と加えたのかもしれない。
けれども、これを「花月」と括弧に入れても、直ちにその意味がわかる人は、実はこれがなくとも意味がわかったに違いない。
だが、どうであろう。多くの人は、括弧内を「かげつ」と読んでしまいそうになるのではないか。
そして、何だか風流に過ぎるような気がするに違いない。まさに「超訳」の気配だろうか。
だが、違うのだ。
ローマ神話のフローラや、英語のフローラルは花に関係ある言葉だから、「フロレアル」も、もちろん花に関係のあるフランス語だろうと想像がつく。
だが、これは、「花と月」の世界が転じての「風流」の意味もある「花月」ではないらしい。コランがいかに意外なジャポニザンだとしても、これは、月明かりの風景、幻想的な、あるいは幽玄じみた風景でもなさそうである。
この「フロレアル(花月)」というのは、実は、テルミドール(熱月)や、ブリュメール(霧月)、そしてゾラの小説のタイトルにもあるジェルミナール(芽月)などと同様なフランス革命暦に由来する言葉である。 つまり、単に「花の月」の意だった。
西洋の詩の題に見られるような「五月に」と同じように、カレンダーの月を表すタイトルだった。
よって、「かげつ」とは読まないのだろう。「超訳」などでもなさそうである。
だが、コランの作品は、わたしには、冷たい月明かりに横たわる裸体のようにも見えなくはないのである。