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発見が待たれる中村彝の消えた手紙、屏風仕立に?

 鈴木良三著『中村彝の周辺』(1977)ではなく、茨城県近代美術館発行の『中村彝とその周辺』(1999)に同館が所蔵する彝の書簡リストが載っている。
 しかし、このリストはいくつか訂正すべき点がある。なかでも重要なのは、このリストに入っている大正5年8月8日伊藤隆三郎(当時の白河町中町在住)宛の書簡についてである。これは、実は同館には無いので、特に注意しなければならない。
 この手紙は、封筒のみが有り、その中に入っている手紙は、前年の2月頃に大島から出された毛筆の書簡である。
 だから、一般の研究者や美術愛好者たちのために、この手紙もリストに加えられなければならないし、先の書簡はリストから除外されるか、封筒のみであることが注記されるべきであろう。

 中身を読めば明白であるが、封筒と中身とが違ったのである。しかも、この封筒には朱色の文字で「(此文屏風二張ル)」と書いてあり、「書翰集P.255」とも書いてあった。
 
 大正5年8月8日の手紙は、「田中館博士の肖像」や、お島を描いた「裸体」の制作の様子が分かる貴重な手紙である。
 お島は、彝がこの作品に描く前に、中原悌二郎のモデルとなっていたというようなことも分かる。

 いずれにせよ、彝の中では比較的大きな完成作品である「裸体」(かつて今村繁三の所蔵品となったことがある目録から確認できる)を今日所蔵する茨城県近代美術館にとっても、これは重要な手紙となるべきものだった。

 この書簡は、おそらく毛筆で書かれていたものと想像される。彝の人格と、その手書き毛筆文字の素晴らしさがこの手紙の受け手である伊藤に強く感じられたのかもしれない。
 だからこそ屏風仕立てにしたのではないか。「此文屏風二張ル」とは、そういう意味ではないか。

 この手紙は、彝を取り巻く多くの芸術家の名前が登場しており、著名な作品への言及も見られる。

 あるいは伊藤は、彝の描く「裸体」が欲しかったのだろうか。後々、伊藤は彝の多くの所蔵品を手放したあとも、彝がルーベンスの「三美神」からアンスピレされたある小さな裸体像だけは手放さず愛玩していたようだ。概して伊藤は、彝の描く人物画を特に愛好していたふしがある。

 さて、その書簡には女性モデルお島に対する「ワイタルフォース」なる言葉も出てくる。
 さらに中原悌二郎の彫刻作品制作の様子も書いてある。すなわち、中原は、手紙ではホーマーと表記されているホメーロスの胸像か、手紙ではポールローランと表記されているジャン=ポール・ロレンスの胸像(ロダン作)のような作品を制作するだろうとも書いてある。 

 さらに彝は、このころ体調も悪くなく、秋には岡山に行って「ルノアールの摸写」をし、帰りには奈良で仏像を研究したいとの希望も述べている。前者のルノワールとは、「泉による女」(1914年作)のことで、これは満谷国四郎がルノワールに直接交渉して、日本にもたらされたもので、当時の日本では比較的大きな彼の真作あったので、彝はこれを何としても模写してみたいと思うようになっていた。

 封筒に書かれている朱色の文字は伊藤隆三郎本人によるものかどうか分からない。その可能性もなくはないが、書簡の編集に関連したものかもしれない。いずれにせよ、この手紙は屏風仕立てにして彝の作品とともに、伊藤家に飾られ、伊藤は、絶えずこれを目にすることによって、その藝術的嗜好に自ら大いに満足したに違いない。

 いつかこの屏風、または仕立て直されたかもしれない書簡本体が古書店もしくは画廊あたりから世の中に出てくるのではないかと、私は密かに期待するのである。

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