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中村彝の少女像と伊藤隆三郎(2)

 白河の伊藤隆三郎は、中村彝が第8回文展に出した「小女」(この表記には違和感があるが、取り敢えず慣例に従う。しかし、読み違えられた可能性もあり得るだろう)を明らかに欲しがっていた。
 大正3年10月20日の彝が出した未刊行の伊藤宛書簡から彼の希望が裏付けられる。だが伊藤はそれを手に入れることができたのだろうか。先の記事で述べたように、先約があったのである。

 そこで、9日後の29日の彝の書簡を読む。すると、伊藤は、当時、実は2点ほどの彝の絵を欲しがっていたようで、作品名は明示されていないが、首尾よく彼はその2点とも手に入れたようなのだ。

 伊藤は、20日の彝の書簡を丹念に読んで、彼が画室の建設もしたがっていることを知ったはずである。そして、前の書簡を読み終わると小切手をすぐさま送ったと想像される。ためらいのない行動である。
 それは「小女」を先約した仙台の岩井なる人物との競争という意味があったのかもしれない。とにかく伊藤は素早い決断で小切手を送ったようである。

 29日の彝の書簡の冒頭は「小切手、確に受取りました」となっている。そしていきなりこう続く。「絵は二つ共御譲り致します」と。伊藤は悦んだことだろう。

 おそらく、この「二つ」というのが、大正14年の遺作展覧会目録に伊藤隆三郎蔵として載っている文展出品の「小女」と大正3年3月の東京大正博覧会に出品された裸体の「少女」(遺作展覧会目録では「少女裸像」)ではないのか、というのがここでの推論である。

 若い伊藤は、収集家の心理から、大正3年の文展出品の「小女」のみならず、もとより同年の大正博覧会出品の裸体の「少女」のどちらも欲しかったのではなかろうか。そのために彼は、かなりの額の小切手を送ったのだと思われる。実際、彝も心機一転と健康回復を願った画室建設の将来的ヴィジョンため、書簡に見られるように肖像画を描くなどして、資金が欲しかったのは確かなのである。

 もちろん、この時、伊藤が手に入れた彝作品の2点について、彝は書簡の中で作品名をはっきりとは言ってはいない。しかし、それは「ギリギリの所までやってある作品」である。

 「(それには)自分をひきしめる力がある。現在の自分を認識し静に確実に歩を進めさせてくれる力があるものです。そは言ふまでもなく、実に純なる自己の実力の総量であって、ここのみは常に静かであり健康であるからだと思ひます。これを奪はれる事は時としては自己の安定を奪はれるにも等しい苦痛と危険とがあるものです。殊に私の様な弱い(外界のものに囚はれ易い)人間はかかる際に一種の不安と淋しさとを感ずるのですが思ひ切って御譲り致す事にしました」と、彝は書いている。彼にしては珍しいほど、2点の作品を「譲る」に至るまでの内面の決心を細かに書いている。
 いや、それは作品を「譲る」というよりも「奪はれる」ほどのものなのだ。かなり感情を吐露する言辞が続くのだが、これも、これらの「二つ」の作品が未だ彼女への愛が未確定な、成就されない俊子をモデルとして描いたものとすれば、理解が行くのではなかろうか。

 その作品は、「実に純なる自己の実力の総量」とも言うべき作品であり、これらを手放すことは「自己の安定を奪はれるにも等しい苦痛と危険とがある」もの、「不安と淋しさとを感ずる」ものと言っている。
 このような作品は、その時の彝にとっては、俊子を描いた作品しか考えられないだろうと思われるのである。しかも、そのうちの公的な展覧会出品作品が先の2点である。

 当時の遺作展についての美術雑誌の詳細な記事や、福島県の地方紙などに伊藤隆三郎の所蔵品としての写真入りの紹介記事などが見つかれば、それは実証されることだろうが、筆者の身近にそうした資料はないので、今、手当たり次第に予想される美術雑誌などを開くわけには行かない。

 ただ、ここでさらにその可能性を探るなら、伊藤隆三郎蔵のコレクションの多くは、高島菊次郎のコレクションとなっているものが多々見られ、これらの2点も戦前に高島蔵となっていると見られることから、その前の所蔵者が伊藤隆三郎(または彼がそのコレクションを手放すに当たって託した者の所蔵※)であった可能性は確かにあったと言えるだろう。

 ※伊藤隆三郎が、一族の事情により、そのコレクションを手放すに当たっては、その名義を変更したことが、地元、福島県の研究者によって既に明らかにされている。
 しかし、本稿筆者はその時の作品リストを未見である。それが作品の特徴が詳細に分かるリストならば、俊子像の特定にも繫がるかもしれない。もちろん、先に述べたように、当時の美術雑誌や地元紙などのさらなる精査も期待される。

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