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中村彝の伊藤隆三郎宛未刊行書簡

 
 彝の多くの書簡は、『藝術の無限感』に含まれている。が、茨城県近代美術館にある大正3年10月20日と同29日の隆三郎宛の彝の書簡2通は、きわめて重要だがそこに載っていない。同年の書簡は、それでなくとも数少ないのに勿体ない話だ。

 同館が管理している書簡のうち、伊藤隆三郎宛は断片を含めて14通有ることになっている。そのうち7通(大正4-6-1,同8-14,同9-6,同9-10,大正5-1-31,同3-26,同7-8,)が既に『藝術の無限感』に掲載されている。(ただし、これらには一部「中略」、「下略」された部分がある。)
 また、同館が編集して一般に販売した『中村彝とその周辺』(1999年頃発行)という冊子には、便箋や原稿用紙にペン書きの未刊行書簡が3通(大正11-6-12,大正12-11-15,大正13-4-?)が、原文の読める図版付きで紹介されている。
 だから、今や同館蔵の伊藤宛書簡で、未公刊のままになっているのは、断簡1点を含めて、4通(大正3-10-20,同10-29,次に述べる大正5-8-8の封筒に入っている本文)である。これらは、いずれも、先の3通の硬筆書簡とは違い毛筆で書かれている。

 先の『中村彝とその周辺』の「資料目録」には、伊藤隆三郎宛、大正5年8月8日付の書簡が所蔵されているようにリスト化されているが、私がかつて同館において調べた範囲ではその手紙本文はない。同館にあるのはその封筒であって、その中身の本文(『藝術の無限感』収録済み)はない。
 大正5年8月8日の封筒に入っているのは、明らかに、彝が大島から出したものものであって、そこには、「来月下旬になったら一旦東京に帰って、ここなり、小笠原なりへ永住の計画を立て様と思って居る」との言葉が見出せる。
 彝が大島から、帰ったのは、大正4年の3月31日頃と推定されるから、この手紙は、おそらく同年2月ごろのものだろう。
 すなわちこの手紙(毛筆)と大正3年の毛筆書簡2通、さらに断簡1点の計4通の伊藤宛書簡が未公刊になっている。
 以上が、茨城県近代美術館にある伊藤隆三郎宛中村彝書簡の、現時点での整理である。

 なお、先の冊子で新たに公開された書簡の読みには、訂正した方がいいと思われる箇所が幾つかあった。この冊子を持っている読者は、自らの学びのため、写真図版の手書き文字を追って、ゆっくり読まれるといい。
 少しでもその芸術家の手書き文字に接すると、その芸術家と芸術に対する親しみもいっそう増すものである。
 実際、私も彝の書簡文字よりもいっそう判読が難しい小川芋銭の書簡や作品中の画賛に多少とも接することにより、芋銭芸術に初めて若干の親しみを覚えることができた。
 

 

 

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