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ふつうの人とは

「私たちはつい、自分が『ふつう』で、それ以外の考え方や行動をする人を『変』だと思いがちだ。でも実際は、ふつうの人なんて存在しない。環境次第で、その特性は強みにもなれば、障害にもなる。」(2022-6-22の朝日新聞記事より)
岡崎明子さんが、こう書いていた。

確かに私たちは自分が「ふつう」で、それ以外のタイプの人間を「変」だと思いがちだ

とは言え、時代と地域によって、ある特性や傾向において、マジョリティ(多数派)とマイノリティ(少数派)は、存在するだろう。
では、そのマジョリティをふつうの人と呼べるだろうか。

同じ地域でも時代が異なれば、マジョリティは異なるかもしれないし、同じ時代でも地域をさらに拡大していけば、マジョリティではなくなるかもしれない。

また、他の特性については、ある特性でマジョリティであった人もマイノリティになってしまうこともあるだろう。

仮に多くの面で、ある国でマジョリティであった人も、異なる時代の異なる国に行ったら、変わった人だと見られ、大いに気に病むかもしれない。

タイムスリップしたら、まずメンタルに気をつけなければならないだろう。
いや、タイムスリップどころか、現代の他のある国々に行っても、相当なギャップとストレス、いや、現況のような惨たらしい戦争が現実に起こっている世界情勢では、恐怖すら感じるかもしれない。

マジョリティとかマイノリティと言っても、多くの場合、人間のある限られた面での比較でしかない。加えて、国のメディアがこぞって一面的なニュースを流し続けたらどうなるか。マジョリティなど簡単に作られてしまうのではないか?

人間をトータルに見て、この人はふつう、あの人はふつうとは違う、などと軽々しくは言えない。それを簡単に言い始めるのは国と国とが戦争を始めるような時だろう!

それに、そもそも人間をトータルに見ることなどおよそ不可能に近いのではないか。

ただ、「定型発達」という言葉はあるようだ。その時代や地域において定型的、標準的に発達したという意味だろうか。
学問的にどう厳密に定義されているのか知らないが、何だか誤解されそうな言葉でもある。

グローバル化した現代は、何でも標準モデルというのはある意味、作り易いのかもしれないし、誰かが作ろうとしているのかもしれない。

これが人間の成長、発達にも適用されると「定型発達」とか、あるいは、「ふつうの人」らしいという、嬉しい?診断が下るのだろうか。

けれど「定型発達」の人にも、方向音痴だという人もいる。先の岡崎さんは自分がそうだと述べていた。狩猟採取時代に自分が生まれていたなら、果たしてうまく生きていただろうかと自問していた。

さて、ここで、スマホの時代になって、私が「私はロボットではありません」という言葉に初めて出合ったときの話。

いきなりのことで、これが認証の一環だとは解らず、エッ何のこと、これは?と思ってしまった。チンプンカンプン、何を言っているのかさっぱり解らなかった。そもそも何のためにこんな言葉が出て来るのか解らなかったし、私は自分が何をしようとしているのか、何をなすべきなのか、解らなかった。
当然である。私が何かをやろうとしていたのでなく、どうも相手方であるスマホ側が、スマホを操作している私に対して、私がロボットでないことを示して(証明して)みろ、と命じているらしいからだ。
そうと察するまでに時間がかかり、かなり焦った。なのでこのことはよく覚えている。

私は、多少、努力しているにもかかわらず、今の時代の人間にはなり得ないのかもしれない。スマホ慣れが遅い、いや、鈍い、機械音痴の人間なのかと悲しんだほどである。
今の時代からすると、私(の神経、反応)はあまり「ふつう」の人間ではないのかと。

今もPCなどが突然、不調になったりすると、何だかパニック的心理状態にさせられ、悲しむことしきりである。

PC画面に書いてある警告だか、コマンド操作方法だか、それらしき文字列は読めても、そこには初めてのような、もしくは聞いたことはあるがどうも違った意味で使われているような、有無を言わさずグローバル言語となった、カタカナ英単語が多い。
何だか無駄な、直訳的文章を読まされているという感覚で、表示された文章が、日本語として素直に自分の頭に入ってこない。
問題が解決すれば、ナンダこういうことなのかと思うこともあるが、それならこう表現してくれればいいのにと思うことも多い。

現代において「ふつう」の人間になることは、あまり簡単ではなさそうだ。いや、非常に難しい。



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