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徳川慶喜の人物像-司馬遼太郎『最後の将軍』(2)

 前回、この本の中に書かれている「人物眼をもって知られる」藤田東湖の言葉として(一読者である自分にとっては意外にも)慶喜が英気と才気がある人物であることに触れた手紙があることを紹介した。
 あまり、彼が才気走らぬように注意なされよという高橋多一郎への手紙だ。なぜなら、それが世の人の反撥を招き、かえって彼に災いとなることがあるからだ、というものである。

 しかし、慶喜が実際、ほんとうに英気と才気のある人物であったかどうか、実はこの本を最後まで読んでも、私にはよくわからなかった。なんだか、その点ははぐらかされたような気がした。

 作者自身、本当に慶喜を英気と才気のある人物として描いているのかどうかも危うい感じがする。

 もちろん、状況を咄嗟に判断し、人に何と思われようとも自らの生命にかかわる危険はすぐさま察知してこれを回避する。それも、けっこうそれなりのもっともな理由をいつの間にか頭で考えて次の状況に備えている。そんな頭の回転の早さはあったようだ。

 しかしそれが英気や才気と言えるものなのかどうか、ごく普通の人間だって、そうした場合はそうなのではないかという疑いがないでもない。

 その意味では、慶喜の行動は、ごく普通の、私たちと同じ弱い人間の行動なのかもしれないというようにも見え、それは自分だという、親しみさえ覚え、同時に鏡のように反射されて、自己批判を呼び起こすが、(意志の強い)人によっては嫌悪感を覚えるかもしれない。

 もちろん普通人の私たちは、多くの場合、政治的に重要な局面を決定をする立場にはないが、御身大切にも見えてしまう慶喜の行動は、ごく普通の人間の動物的で、当たり前な本能的な行動だったと言ったら酷評になってしまうだろうか。

 仮に慶喜には、英気や才気があったとしても、胆力がなかったという評判、これはおそらく避けがたい評価であろう。

 あの幕末の若い志士たちの中に彼を置いてみるなら、胆力、意志、信念といったものは、どうも欠けており、見方によっては優柔不断とさえいってもよいのかもしれない。

 幕末の若い志士たちは、強い意志力、信念、胆力をもって行動し、命も落とさねばならなかった。が、そうしたものから超然としていた慶喜は、仮に何らかの強い自分の考えがあったとしても、決してそれを口には出さなかった。
 後で言質を取られないためにはその方がよいのであるが、明治になって、政治的な局面からだいぶ離れて後も、自分の考えをあまり口に出さないという、藤田東湖が慶喜のために忠言した「寡黙」は守り通したようである。

 それはともかく、時代が流動的なときは、状況がどう変わるか分からないので、慶喜は、意志や信念よりも、変化する状況に応じて自分がその時判断した最善の行動をとったのかもしれない。

 しかし、これは、政治家や上に立つ者にとっては都合がよいかもしれないが、下の者にとっては、何を準備してよいのかわからず、非常に困ることになることが多い。
 ことによって勝てたかもしれない戦が、負け戦になってしまうこともあるかもしれない。

 慶喜の政治的行動は、臆病にも卑怯にも優柔不断にも見えたことだろう。それは武芸よりも彼の血筋にあった貴族的な身の処し方だという人もいるかもしれない。

 それゆえ、慶喜の本意(それがあったのかどうかさえもよく分からないことが多い)が分からず、水戸の過激な者たちにすら、疑念が抱かれ、身替りのように慶喜の側近が殺められるようなことがおこったのだ。

 作者司馬遼太郎は、慶喜に対して、優柔不断という言葉は文中でできるだけ避けていたように思うが、胆力という言葉は使っており、それがなかったということは書いていた。

 この本を書くとき、作者はシュテファン・ツヴァイクの伝記で有名な『ジョゼフ・フーシェ』のことが頭にあったようだが、慶喜も、政治家としては、状況に応じて変節していくように見え、理想や信念などに命などかけないで、どこまでも生き延び、長い余生は趣味生活に没頭していくタイプの現実主義者であったことは言えるかもしれない。(続く)

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