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中村彝の洲崎宛書簡、日付の再検討

 大正期の画家・中村彝の友人・洲崎義郎宛書簡は、彝の相馬俊子への恋愛感情やその経過などが記されたものとして、関心のある人たちにはよく知られている。

 その書簡の多くは今日『藝術の無限感』で読むことができる。1997年、洲崎の出身県にあたる新潟県で彝の展覧会が開かれた。そのとき、その図録に付帯して『中村彝・洲崎義郎宛書簡』が刊行された。ここには、『藝術の無限感』にない洲崎宛書簡も掲載された。よって、これはこれで意義のある出版となった。ただ、惜しむらくは、誤植または肉筆文字の読み誤りは避けられなかったようである。しかし、これは期間が限定され、時間に追われて編集する他の美術館の展覧会図録にもまま見られるところだ。

 内容を読んでみると、『藝術の無限感』におけるいくつかの書簡の日付が変更されているようであった。だが、その理由は示されていなかった。

 例えば、『藝術の無限感』で「大正5年4月(?)28日」とされていた彝の書簡が、なぜ、同年2月28日に変更されてしまったのか、その理由は書かれていなかった。

 私は、その変更は疑問で、する必要がなかったと考えている。そのことについて、他のブログで詳しく書いたことがある。だが、それはあまり知られていないようだ。そこで、ここにその最初の記事をリンクしておく。
 これらの記事は、先の図録と別冊の書簡集とを所持している人々や、今後の彝作品研究に役立つことがあるかもしれない。

※追補
 この展覧会には、私には理解できない作品が複数、出品されていたが、
 収穫もあった。彝の代表作「エロシェンコ氏の像」とPL 教団蔵の「女」とが、自分が予測していた通り、同じ額縁に入っていたことが確認できたことだ。
 額縁の情報は、ほとんどないのがふつうだから、展覧会の現場で確かめるほかはない。そして、額縁の確認は、対をなす作品や、真贋、制作年、制作順などの曖昧な作品の判断に有益な情報を提供することがあることを言い添えておく。




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