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野生ペンギンと出会い、人生の向きが変わった
想像していた未来
定年退職まで小学校教員
同業者もしくは地元の人と結婚
ずっと奈良に住み続ける
小学校卒業式でのスピーチ「先生になりたい」
母校の小学校は1学年1クラスの小規模校。卒業式で将来の夢を発表するという恒例イベントがありました。
私は練習で「差別をなくす人になりたい」と言ったのですが、他の教師から「なんやそれは!職業名で言え」と注意されました。
担任と相談し「差別をなくす人、先生になりたいです」という表現に変えました。
このとき本当に先生になりたかったのかと聞かれると微妙なところですが、これを知っている同級生の親たちには「夢を叶えた子」に見えたのかもしれません。
高校1年生の科目選択で教員に向かうことを決める
2年生になる前に、科目の選択がありました。
進学校だったこともあり、ぼんやりと大学進学は考えていましたが、どの道に進もうかと思ったときに浮かんだのが先生でした。
数学が苦手だったので、国公立は諦め、文系科目のみで受験でき、小学校と今でいう特別支援学校の教員免許が同時に取れる、家から通える範囲の大学に進学しました。
2度目の教員採用試験
現役では不合格だった教員採用試験でしたが、2回目で無事合格、奈良県公立小学校教諭として採用されました。
私の父は教員ではなかったものの、公務員でした。
父の姿を見て育っているので、私も定年までは教員なんだろうなぁとぼんやり思っていました。
特におもしろいことも変わったこともしてこなかったし、そもそも人見知りが激しく、人前に出たいタイプではなかったので、このまま平凡な人生を送るものだと思っていました。
想像していなかった未来のはじまり
現在、私は北海道旭川市より1時間ほど北に行った、剣淵町というところで、ペンギンあふれるゲストハウス(簡易宿所)と個別指導塾を経営しながら、図書館施設のパート職員として働き、高校で絵本の授業を担当し、町の特産物を扱っているオンラインショップを運営するというタコかイカのような何足ものわらじ生活を送っています。
まさにまったく想像していなかった未来。
なぜそのような生活にたどり着いたのか、転機を綴っていきたいと思います。
①初の一人旅で野生ペンギンと出会う
小学校教員になって2年目、一人暮らしを始めました。
それまで「休みの日は何もせずに寝ていたい」タイプだったのに、一人暮らしでずっと家にいたら誰ともしゃべらない!と危機感を覚え、外に出ていくようになりました。
教員という立場上、夏休みなどの長期休みにまとめて有休を取ることが多く、パッケージツアーを利用し、友人を誘って国内外を旅行するようになりました。
ある年の夏休み、インドのコルカタに行きました。
マザーテレサの施設でボランティアをするというプログラムに参加するためです。
パッケージツアーみたいなものではありましたが、現地でホームステイをしながら施設に通ったので一人で行動する時間がかなりありました。
インドのカレーはどれもおいしく、毎食カレーでも全く飽きなかったけれど、騙されて高額な買い物をさせられそうになったり、親切に道を教えてきたお兄ちゃんたちにお金を要求されたりとなかなかハードな経験をしました。
それを乗り越えて帰国した私は思ったのです。
「もう一人旅できるんちゃうん?」と。
一人旅だったらどこへ行きたいか?誰も付いてきてくれないところにしようと浮かんだのが、野生ペンギンに会いに行くでした。
私は中学生くらいからなんとなく、ペンギンが好きだったのです。
ペンギングッズを集める・・・くらいだったけれど。
『ペンギンに会いに行こう!!』
著:ペンギンスタイル 監修、読み手:上田一生 ソフトバンククリエイティブ
こちらの本は日本各地の動物園や水族館にどのペンギンが何羽いるのかが詳しく書かれているのですが、後ろの方に海外の生息地で会えるペンギンが載っていて、そのページを何度も何度も読みました。
野生ペンギンに会う一人旅、行き先はニュージーランドに決めました。
日本で飼育されていない野生ペンギンに会いたいと思ったのです。
ニュージーランドにはキガシラペンギンという固有種のペンギンがいて、日本では飼育されていません。
その生息地を訪れるツアーがあると書いてあったからです。
インドに行った次の冬休み、終業式が終わってすぐ、一人旅といえばバックパッカーと思い、新しく買った48リットルのバックパックを担いで旅立ちました。
人生初の野生ペンギンはオアマルというペンギンの像がある町で出会った、世界一小さいペンギン、コガタペンギンでした。
コガタペンギンは夜、海から陸にある巣に帰ってきます。それを遠くから見られる場所(臆病なのでなるべく遠くから)に宿主さんに連れて行ってもらいました。
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波に逆らって必死に泳いで(そう見えていただけかもしれません)帰ってくる姿に胸を打たれました。
これは動物園や水族館では絶対に見られない姿やん!と。
他にもNZにしかいないキガシラペンギンとも会い、野生ペンギンにはまっていきました。
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②ガラパゴス諸島への旅
ニュージーランド一人旅の次はガラパゴス諸島に決めました。
ガラパゴス諸島には固有種のガラパゴスペンギンが生息しています。
上野動物園で飼育されていた過去はあるようですが、現在ガラパゴス諸島の生き物たちは持ち出し禁止となっています。
まず、ガラパゴス諸島への行き方を調べました。
そこで初めて、ガラパゴス諸島がエクアドルっていう国にあって、まずはエクアドルに入国しなければならないということを知ります。
ガラパゴスペンギンに確実に会うために、1週間のクルーズ船のツアーに参加しました。
![](https://assets.st-note.com/img/1732530945-0bZaqcMA4YpyT1XNDdEg6mKw.jpg?width=1200)
そしてエクアドルの首都キトで一人の男性と出会います。
彼と一緒に過ごしたのは数日でしたが、すごく楽しく、新しい世界を見せてもらったのもあり、よし、教員を辞めてエクアドル行っちゃうか!となってしまったのです。
教員を退職し、エクアドルへ行く
これまでの人生でそんな大きな決断をしたことはありませんでした。
でも気持ちが向かってしまうと、もうどうしようもありません。
両親に「話があります」と揃って話を聞いてもらったのも人生で初めてでした。
大切に育ててくれた過保護な父が泣いたところを初めて見たこと。同じく反対するであろうと思っていた母がすぐに「あんたの人生やから」と受け入れてもらったこと。今でも思い出すと涙がこみ上げてきます。
なんとか父も折れてくれ、3月末に7年間の教員生活を卒業し、私はエクアドルの首都キトへと向かいました。
それなのにそれなのに・・・着いて1週間ほどで彼との関係があっさりと壊れました。
「この人さえいれば大丈夫」と思って旅立った自分。
たった一人に自分の人生を委ねることの怖さを知りました。
でも、どんなことがあっても自分が選択した結果だと思うようになりました。
泣きすぎて眠れない日もあったけれど、確実に私という人間を育ててくれた出来事でした。
ホントはすぐに帰国してもよかったと思います。
けれど、たった一人が理由でエクアドルという国を嫌いになりたくありませんでした。
だから自分が決めた期間はちゃんといようと決めました。
エクアドルで過ごしたのは1年3か月。
スペイン語学校で出会った先生や仲間、キト日本人学校補習授業校で出会った日本やエクアドルの人々、さまざまな人に優しさをもらい、支えられ、私はエクアドル生活を卒業し、やりきった満足感とともに日本へと帰国しました。
今ではエクアドルは大好きな国の一つ。
帰国して3年後には2か月のお休みを使い、エクアドルに「里帰り」をしました。それくらい大好きです。
③南極・パタゴニア旅からの北海道
北海道へ移住するきっかけは南極・パタゴニア旅でした。
南米まで行ったのだから、やっぱり南極に行きたい。
この思いは消えず、エクアドルから帰国後、再びアルゼンチンへと旅立ちました。
このときは2か月半という期間を決めた旅でした。
首都ブエノスアイレスから一気に世界最南端の町ウシュアイアへ。
そこで空席がある南極クルーズツアーを探し、南極へ行ってきました。
ここでは南極旅がメインではないので、それは違う記事をお読みいただけたらと思います。
まぁでも南極は素晴らしすぎました!
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南極クルーズから戻り、まだ1か月半ほど余裕があったので、パタゴニアをうろうろしました。
泊まった宿の旅ノートでペンギンスポットの情報を得たり、ふらっと立ち寄った町のインフォメーションでペンギンの写真を見つけて「これはどこ?」と教えてもらった町へ向かったり、旅先で出会った人の家に泊めてもらって近くのペンギンスポットに連れてってもらったり。
ペンギン尽くしの旅でした。
日本に帰る日が近づいてきたとき、仕事も辞めてしまっているのでこれからどうしよう?と考え始めました。
パタゴニアの広い大地を見て、「日本でもこんな広いところに住みたい」と思い、真っ先に浮かんだのが北海道でした。
便利なもので、パタゴニアでも情報収集ができました。
そこで十勝鹿追町の「産業研修生」というのを見つけ、パタゴニアからコンタクトを取り、鹿追に行くことになりました。
町が用意した1Rの部屋で生活しながら、畑作農家もしくは酪農家に通うというものでした。
そこからは人との出会い、つながりだけで道内を移動してきました。
鹿追町→富良野市→東川町→剣淵町
仕事も農業から日本語教師、地域おこし協力隊を経て、今があります。
出会いが宝物
教員を辞めたことについて「もったいない」と何度も言われましたが、私自身はもったいないと思ったことはありません。
なぜなら、教員を辞めていなかったら出会えなかったであろう人とたくさん出会えたからです。
これは現在進行形です。
人に助けられ、支えてもらってここまでやってこれたのだから、私も人を大切にしないとバチが当たるなぁと思い、日々を過ごしています。