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カミーノ巡礼で考えたこと:自分と他人の境目について
昨夜、所属するオンラインのグループで、カミーノ巡礼の体験をシェアする会をしました。
その中で「時間も空間も、誰かと自分も、あってないような感覚を覚えた」というところに興味を持ってもらえたので、それをきっかけにもう少し書いてみたいと思います。
誰かと自分の境目が、曖昧になる感覚について。
到達地サンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂、祈りの部屋で腰を下ろしたときの感覚については、以前の文章に少し書き足しました。
何というか、数世紀前に存在した(であろう)人の感情が、すぐそばにあるように思えて
「過去の時間なんて誰かがつくった基準であって、今ここしかないのかもしれん」
「自我なんて、大したものじゃない。ただの『現われ』すべてはワンネスかもしれん」という感覚を覚えました。
祈りの部屋は天井が高くて、東京駅丸の内口みたいにドーム状になっていて、たしか光が差してました。それももう過去だけど。
それからもうひとつの体験の話をします。
最終日の夕飯を終えて、ホテルに戻る帰り道、大聖堂前の広場から音楽が聞こえました。
ガリシア地方の伝統音楽をパフォーマンスする、男性たちのバンド演奏でした。石造りの建物の壁に、音楽が反響して手拍子も高くなってきました。
観光客が周囲を囲み、口笛が鳴らされ、だんだんと盛り上がってきました。するとバンドメンバーの中で一番の年少者(おそらくはイケメン担当)が前に出て踊り始めました。
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あでやかなマントをひるがえして、軽やかに踊る青年。
その面影が、以前親しくさせてもらっていた友人と重なりました。
数年前に脳梗塞で倒れたTくん。その後の消息ははっきり分かりません。家族に守られて自宅療養しているようですが、会えません。
たぶんバンドの青年は、昼の仕事を終えると仲間と合流し、夜な夜な踊っているのでしょう。観光客の動画におさまり、にこにことチップを集める。
私は、「この青年はTくん〘かもしれない〙」とふと思いました。
一人の人間の人生ってものを考えると、すごく理不尽な面もあります。がんばっても頑張りと成果が必ずしも一致しないし、この年になると「神もホトケもないな」と号泣せざるを得ないような別れも、経験しています。
(先日の読書記録でも、この考えについて触れました)
私達はそのことをしっかりと明らめ(諦め)て、でも自我をもった一個の人間として、使命らしきものを指定して、そこに向けて生き抜くしかないのかもしれんな、と思います。
私自身にも、こうなっていきたいという道すじがあって、そこに向けてできることを日々、やっているつもりです。でもそれが、私個人として達成できるかどうかよりも過程がだいじであって、ワタシでない誰かもパラレルワールドでこつこつ努力していて、その成果を喜べるようでありたいなと、そんなことを考えています。
Tくんの心が、ガリシアの空にも輝きますように。