もうすぐ3歳になる息子の出産のときの話をしよう。#1
もうすぐ3歳になる息子。
息子が3歳になる。私も母として3周年だ。今日は妊娠中に乗り越えた数々の壁と、出産のときの記憶を振り返りながら、母としての自分に祝福をあげたい気分だ。
出産前に書いた記事を探してみた。
エモかった。お腹の中で、ポコポコ動いて命。
息子が生まれて、母としていろんなことを経験させてもらった。
息子のおかげで、これまで出会えなかったような人に出会えて、人生がより豊かになった。
初めての妊婦生活は波乱万丈。
私は体外受精で子どもを授かった。2年ほどかかった待望の我が子だ。
妊娠する喜びもつかの間、いろんな試練が私を待ち構えていた。
切迫流産、悪阻での点滴の日々、適応障害での休職、妊娠糖尿病の疑い→栄養相談、低置胎盤気味とのことで、出産する産院を転院。
今思い出すだけで、ハッピーなだけの妊婦生活とは言えなかった。
初めてのお産、しかもコロナ真っ只中。東京から里帰りを希望する私のことを受け入れてくれる、地方の産院の目は厳しかった。
2週間の自宅待機。その間のワクチン接種の義務付け。
しかも実家は離島。島の中の病院から転院を強いられたため、本土の病院までは2時間かかる距離。
重いお腹をひっさげて、毎週船に乗って通院していた。(その途中で前働いていた同僚に何度も助けてもらって、嬉しかったこともあった)
しかもいつ出血するか分からないというリスクがある、低置胎盤。
先生からは「出血するかもしれないから、出産より早めに入院して、出産に備えましょう」と言われた。
実家での日々は快適なものだった。私は当時からコーチングの勉強をしていたので、コーチングの練習や、国家試験対策の勉強をしていた。
親と毎日散歩に行き、久しぶりに「娘」としての時間だった。
出産したらもうこんなゆったりした時間は過ごせないだろう、そう思いながら小豆島でのゆったりライフを過ごしていた。
毎週通院するたびに、「今週も入院しなくて良かった。ホッ。」と胸をなでおろす。
それと同時に「出血したら、いきなりお産づいたらどうしよう」と不安になる。
安心と不安の間に、身をおいているような気分だった。
そんな日々も過ぎ、臨月になって、あっという間にもう3週間後が出産予定日という通院の日。
先生が「そろそろ赤ちゃんも大きくなっているから、そろそろ入院できる?」との声。
「いよいよか。」と少し肩に力が入った瞬間だった。
入院生活は思っていたよりも過酷だった
入院が始まった日。コロナで完全隔離された病棟を前に、母が送ってくれる。
「りか、頑張ってな」と少し不安そう、でもこれから会える孫の姿を楽しみにする母。
私は「うん、ありがとう」と返す。
重い荷物を看護師さんに持っていただきながら、外と中とをつなぐ、重い重いドアが閉まるのを感じた。
出産まではあと、3週間。
長くて長い、戦いが始まる。
最初に案内されたのは
最初に案内されたのは大部屋だった。
もう出産を終えた方と、今産気づいて苦しそうな方。
いろんな方が入院する大部屋で私は数日暮らした。
大学病院だったけれど、想像よりも病院食は美味しく、毎日快適だった。
数日が経ち、リスクのある妊婦さんが生活する個室への部屋移動が決まった。
それはMFICUという24時間体制の充実したサポートのある個室だった。
そこに2週間ほどお世話になることになる。
最初は初めての入院生活で、ほどよく新鮮さがあった。
新生児のほやほやの赤ちゃんが見られたり、テレビでしか見たことのない教授回診があったり。
大学病院ならではの珍しいことが起きていた。
看護師さんもどの方もすごい優しい。話にもよく乗ってくれる。テキパキしていてさすが大学病院っていう感じだった。
でも毎日が単調で飽きてくる。だって入院してから1回も外の風を感じることもできない。
移動販売の車が病棟に来るのをただただ待っているのが唯一の楽しみ。
あとは部屋で基本的には一人過ごす孤独な日々。
そして夜も陣痛の前触れなのか、寝られない日々がやってくる。
入院から13日目。ついに自分の中に堰き止めていた気持ちが爆発し、看護師さんの前で号泣してしまった。
「もう生まれない!!!!私の赤ちゃん、出てこないんだ!!!」
陣痛の前触れこそあるものの、毎日うんともすんとも出てこない息子。
もうとっくに出産予定日は過ぎている。焦りと不安と、そしてちょっとしたやるせなさとで
しくしく泣く私。看護師さんは慣れているのか、落ち着いた様子で相談にのってくれる。
「赤ちゃんはお母さんのお腹の中が気持ち良いんやね」と言ってくれる。
私は「知らない!!もうそんなんどうでも良いから出てきて!」と心の中で叫ぶに変わる。
そして布団を濡らす時間が増えてきた。諦めそうになった。
もう入院してから13日が経った頃だった。