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コーチだって悩みはあるし、辛い過去に心が引っ張られることもあるよって話。

今日は最近日常で思っていることや、そこからどう捉えているかを書いていきたいと思う。


コーチという仕事柄

この仕事をしていると仕事でもプライベートでもよく聞かれる。「前向きに捉えられてえらいね」とか「挑戦していてすごい」「余裕がありそう」とか。

こういうことを言われると、外から見える自分と、内側で見えている自分がギャップがあり、多面的な自分が見え隠れしているのかなとも思っている。

そう言ってくれることは素直に「ありがとう」。

だし、同時に「そんなことないよ。普通の人間と同じように悩むし、苦しむし、葛藤しているよ。むしろこの世界に気づいてしまったから、苦しいこといっぱいあるよ」ってつい口に出しそうになる。

今日はこの話の見解を、自分の体験や思いをのせながら話していきたいと思う。

いつだって嫌われるのが怖い


よく私あるあるなこと。
誰かに送った返事がちょっと来ないだけで気になる私。

「あれ?あの返事そう言えば来てないな⋯」と考えると自動的に、

「あれ?何かしたっけ?」

「どこかでもしかして覚えはないけど、相手の琴線に触れてしまったのではないか」と頭をよぎる。

とたんにキューと体が縮こまる感覚がしてくる。

「あれ?わたしもしかして、嫌われた?嫌な思いさせちゃった?

そう、覚えはまったくないのだ。(これが厄介。だから怖さも倍増する。)

もうちょっと言うと、どういう態度が人に嫌な思いをさせてしまうのかの言語化が進んでいないということなのかもしれない。

この体験には、原体験がある。

あれは小学校3年生のとき。

手紙を友達からもらった。クラスでいつも明るくて運動もできる憧れの友達。

誰にでも優しくて、クラスの盛り上げ役。土日になるとグループで遊んだりお互いの家も行き来していた。

そんな友達から手紙をもらった。「何書いているんだろう?」

読んでびっくりな内容が書いてあって・・・

中を見てみると、「りかちゃんのこと、嫌いになりました。もう話さないでおきましょう。友達をやめましょう。

そう書いてあった。

あれは小3のときだった。季節は覚えていない。寒かったか、それとも暑かっただろうか。

素直に、びっくりした。身に覚えがまったくなかったのだ。

みんなで楽しく遊んで、話してたじゃない?

え、わたしあなたといるとすごい楽しかったよ!私だけの気持ちだったの?

幼心ながらこう思った。

それから人に嫌われることが極端に怖くなった。

嫌われないように取り繕う。嫌われないように、嫌われたくないから、相手に無理に合わせたり、空気を読んだり。

好かれたい、好意的に思われたい。というよりも
嫌われるのを避けるための行動がメインになって

自分をそんな暗いもやもやした気持ちがうごめくようになった。

今思うと、なんだったんだろう⋯て思うし、その後高校生になるまで同じ部活だったし、クラスも3年間同じだったこともある。

あのときの、あれ何だったんだろう・・・もしかしたら気まぐれだったのかもしれない。

ふとした思いつきだったのかもしれない。

今となってはきっと過去の可愛い小学生のときの記憶で、きっとお互いに話し合えそうな気もする。

でもふと相手からの返信がないとき、気になってしまうことがある。

「もしかしてあのとき、私気づかないうちに何かしてしまったのではないだろうか⋯またあのときと同じように⋯」

この話を夫にしても「いや、きっと忙しいだけだって。忘れているだけだよ。」と言ってなぐさめてくれる。

自分の中で「もう大丈夫、きっとあの時とおなじようなことは起きないよ。大丈夫。そのときは周りの人に助けてもらおう」と優しい自分も励ましてくれる。

でもそれをやってもやっても、気になるものは気になるものなのだ。

しかもコーチングで自分と向き合う大切さ、自己認知が進んでいるからこそ、自分に嘘をつけなくなってしまった。

言い換えると、ごまかしが効かないのである。

前だったら「忘れる」とか「気にしない」ということが可能の世界線に生きていた。

でもコーチングを知れば知るほど、自分の感情や感覚に自覚的になる。自分の感覚に正直になればなるほど、気づけば気づくほど、癒やされもするし、気づかない方が幸せだったことにも「気づいてしまう」のだ。

これは「コーチだから全てオール幸せなんでしょ」の答えかもしれない。

気づくことの危うさや、気付かないことの幸せもあるからだ。

私が学んだTHECOACHの好きな一節。

で、本題に戻すと、ここで言いたいのは、「返事は早く返してほしい」という表面的なことではない。

本当に心から願っていること

私が相手に心から願っていることはなんだろう。その奥にある願いや思いはなんだろう⋯

散歩に行く道の川べりに座って、自分と対話をしてみた。

じゃあ「嫌われたくない」の対極にあるものってなんだろう。

「嫌われたくない」はあくまで自分にしか目がいっていない。

「嫌われたくない」と思っているとき、自分を守っているし、いわば自分のことだけを考えている、保身的な自分だ。(これが悪いわけではない)

そうすると、対極にある、その先にあるのは「その人の今ここにある幸せを心から願う」ということなのでは?と思った。

相手が今どんな状況であるかは見えないし、分からない。でも今この瞬間の幸せに思いを馳せる。

そうするとその人とのつながりも保たれる気がする。

「あぁ今あの人も、笑顔で満ち足りて過ごしていてほしいなあ。」

「大事な人と、今この瞬間を笑顔で過ごせてたら良いなあ」って。

そう思うと、不思議と「嫌われているから、返事が来ないのかも」はどうでも良くなってくる気もちょっとだけしてきた。

そもそも「返事がない=相手の課題」で、自分がどうこうできることではない。

嫌われるかもは、いつまで経っても自分の視点で物事を見ているし、コントロールできることではない。

そこにいるのは、返事をしてもらえない悲しい自分だけだ。

でもその人の幸せに思いを馳せる瞬間は、見えない糸で自分とその人が繋がってみえる。

そう捉えるとちょっとだけ自然に思えるし、安心だ。

毎日に起きることとは

前向きにいつもいられるわけではもちろんないし、目指してもない。

この仕事をして、どれだけ自分に自覚的であったとしても、終わりがない。

思うようにいかないことや悔しいことは当たり前のように起きる。

イライラもするし、ジタバタすることもある。

でもどれだけ転んでも、また立ち上がって、止まってもそれでも「今を」生きていきたい。

「あぁあのとき頑張ったな。楽しかったな。充実してたな」ってあとを振り返って思う瞬間がすごく好きだ。

それが人生なのかもとも今のわたしは思う。

生きることは、ときたま試練を自分に与えてくれる。大波にのまれ、濁流に漂い、たまに抜け出してほっとする。

そうこうしているうちに仲間もそこに来て励ましてくれて、休んで、ときに馬鹿するくらい今を楽しんで活力を得て、もうこのまま一人で寝そべってたいって思うときもある。

こういう生きる営みの中で、今日も生きていきたいし、その先にある人生のまだ見ぬ可能性に目を向けたい。

きっと今「返事が来ないことを気にする自分」も乗り越えられるはずだ。

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