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雪柳 それから小手鞠
別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます。 川端康成
彼はなんでもよく忘れる人だった。
そして、私はなんでもよく覚えている。
「あれ、そうだったっけ。」と彼はよく笑っていたけど、本当に忘れたのか、忘れたふりなのか、はたまた思い出すのも面倒なのか、私には結局最後までよく分からなかった。でも、忘れられるのは辛かった。
彼と別れて一年になる。
先週、自由に旅行も出来ない毎日に嫌気がさして、花を買いに行った。お店いっぱいの花々を眺めて、気になった数種類を選んで帰った。
そのお店は、店主さんとそのお母さんがやっている。お母さんが、「お姉さんは、白と緑が好きなのかね」と包んだ花を私に手渡しながら、にやりと笑った。猫背ぎみの小さな身体。鷲鼻で、大きな目がきらりと光っていた。いい意味で魔女みたいだなと思った。
私が買ったのは、コデマリとアカシア、スノーボウルとユトリカリアである。
「あのミモザください」
「違うよ、あれはアカシア。ミモザの季節はもう終わるよ。」
「あのカモミールください」
「ユトリカリアかね、似てるけどね。カモミールじゃない。」
魔女と私はこんなやりとりをした。だいぶぴしゃりと言われたけども、お陰で花の名前は覚えた。
家に帰ってコデマリを生けながら、彼に花の名前を教えたことを思い出した。教えたのはコデマリではなくて、ユキヤナギというよく似た花だけど。
一緒に遊びに行った先で、この花はユキヤナギと言うのだ、と彼に教えた。
それから後、その花を目にする度に彼は「これはユキヤナギだね。」と言っていた。この花の名前は覚えていたようだ。
彼は、母親のことをよく話す人でもあった。良いことも、悪いことも、よく私に話して聞かせた。会うことはなかったけど、私は彼の母親についてかなり詳しくなった。
私も性格が悪いとは思うが、彼と別れた後、彼の母親のSNSを見た。なんとなく彼の現在が気になるけれど、彼自身はSNSを全く使わない人だったから、近況を知る手立てが他に思いつかなかったのだ。
結局、母親のSNSを見たところで彼の近況は知れなかった。しかし、母親は花の写真を投稿して、このようにコメントを書き込んでいた。
「なんて名前の花なのでしょう?」
そりゃユキヤナギですよ、お母さん。私はそう心の中で呟いた。さて、彼はユキヤナギのことを今も覚えているだろうか。かの文豪が言ったように、ユキヤナギを見て私のことを思い出したりするのだろうか。
しばらく感傷的な想いに耽ってみたけれど、思い出されたってねぇ…それがなんだっていうのかしら、と急に我に帰った。
彼と別れてから一年になる。
思い出したってしょうがないこともある。でも、思い出せば、過ぎた月日と進んだ歩数を確認できる。私は一年ちゃんと生きた。それでいいじゃないか。
私の買ってきたコデマリは、順調に花を咲かせ始めた。春は今ここにある。私は魔女の目に見た光と、私が過ごしたこの一年を信じようと思う。