before.001
2021年7月私は離婚した。
理由はありふれたものだった。
私は「結婚」という偶像に夢をみていたし、「結婚」が達成されると、相手は「夫」という名前を付けられた、私の一部になっていった。
離婚の原因の大部分はそこにあるのだろう。
「夫妻」はセットではないし、本来彼は「夫」でもなく、私は「妻」でもない。
昔どこかの誰かが、わかりやすいように名付けた、ただの名称である。
私はまんまとその名称に嵌まってしまっていたのだ。
離婚を決めてからは、人生の神様が応援してくれているかのようにスルスルと事が進み、離婚に至った。
あぁ、追い風が吹いている
そう感じられずにはいられなかった。
世の中は、コロナだなんだって騒いでいた時期で、3ヶ月後にアメリカが入国制限をかけることになる。
元夫はとても優しい人で、私の意見を最優先にしてくれていたし、私のやりたいようにやらせてくれた。男らしさや、頼りがいはなかったが、私には都合がよかった。
靴下が洗濯かごに入っていないとか、電気を消さないとか、ソファで寝転がって動かないとか、その類の不満のタネを蒔く人ではなかったし、便座のふたも閉めるし、分担した家事だって毎日やる。
トイレットペーパーの残りが10cmくらいしか残っていないのに変えていないことにイラっとすることはたまにあったし、ティッシュペーパーがポケットに入ったまま、洗濯かごに入れることに関しては最後まで続いたが、強いて上げるならそのくらいだった。
うんと贅沢できるとはいわないが、私がOLを辞めてフリーランスで働けていたのは、彼のおかげだったし
今考えても、何が不満だったのか。とても良いじゃないか!なぜ離婚したんだ?と頭の中で聞こえてくる。
が、
つまらなかったのだ。
新卒で入った会社に勤め続け、変わらない世界で生きている彼に。結婚前と同じTシャツを着ている彼に。
嫌気がさしていたし、魅力のミの字も感じられなかった。私は彼に、私と同じ価値観で生きてほしかった。それが当たり前だと思っていた。だって「夫妻」なのだから。
もしかすると日常を送るにはとても良い相手だったのかもしれない。過去の自分に、自問自答したくなるときもある。
ただ、やはり私の求めているものは、彼の中にはないのだ。
夕飯がスーパーの割引弁当でも嫌な顔ひとつする人じゃなかった。バーキン買おうかなと言う私に、買えるなら買ったらいいよと言ってくれる人だった。私はとても自由に生きていた。
しかし、離婚すると私の背中には羽が生えた。足かせが外れた。私は「妻」という役から降りたのだ。
妻らしいことを何かしていたかといわれれば、最低限の衣食住を整えることくらいはしていたが、それ以上でも以下でもない。
「主人がお世話になっています」なんてセリフを言ったのは10年間「妻」をやっていて、2〜3回くらいはあったかもしれないが、そのくらいだ。
「妻」の意味を調べてみると、「配偶者である女」などと出てくる。家事をするとか、夫を立てるとか、そんなのは一切書いていないし、文化や時代によっても「妻」のイメージは異なってくるだろう。
ただ、私の中の「妻」は、配偶者である女以上の意味を纏っていた。それは「夫」「夫妻」も同じように。
離婚後しばらくは何もしないつもりでいた。慰謝料ももらえたし、何もしなくても生きていけたのだ。少し休もう、そしてこれからのことを考えようと。
いや、本当はすぐにでも何かしたかった。何かしたくてたまらなかった。あの頃の私は、止まったら死んでしまうようなタイプの人間だった。動いていることに価値を感じていたし、行動力だけが私の強みだと思っていた。
私の欲しい未来から逆算し、今必要なことをする。ただそれだけ。私はそうやって生きてきていた。
22歳までは〝小さいころからの夢〟を叶えるために奮闘した。夢は叶わなかったが、その時間は楽しかった。
それから、周りが就職し始めたタイミングで、私も普通の幸せを求めることにした。
就職することにとても抵抗があった私だったが
・月曜日から金曜日までの週5日
・勤務時間は9時〜17時、残業なし
・休憩はきっちり12時〜13時の1時間、休憩室は畳の個室でお昼寝もできる
・有給は自由に使えて、休んでも仕事が溜まることはない
・上司もいない部下もいない
・自宅から自転車で15分
という、なんとも好条件でストレスの一切ない仕事に就くことができた。その分お給料は少なかったが、実家住まいで学生のころから続けていたキャバクラで、週2〜3日アルバイトしている私にとっては、全く問題なかった。
私の両親は、私に口を出さない人だった。出さなかったが、やってみたら?と応援された記憶もない。
小学生のときに私は犬が飼いたくなった。そのときテレビでやっていた名犬ラッシーに心を打たれたのだ。都内のマンション住まいだったので、コリーは難しいだろうなと小学生ながらに思い、コリーを小さくしたシェットランドシープドッグを飼いたいと思った。
ただ飼いたいとだけ言っても反対された。理由はお散歩どうするの?とか餌代がかかるとかだった気がする。
そこで私は「シェットランドシープドッグの飼い方」という本を購入し熟読し、散歩やお世話の計画書を作成した。必要なものと経費を出して母を説得しようと試みた。ペットショップを探して母を連れて行った。
かわいい犬を見て癒され、ここまで計画し子どもが訴えているのだから、飼ってもいいだろう?という私の魂胆だった。なんなら貯めていたお小遣いで、餌なら買えそうだったので、餌を先に買ってしまおうかとさえ目論んだ。そこまでしたらノーとは言えないだろうと。
もちろん犬を飼うという話はボツになった。父と母の間で、犬を飼うことについて意見交換がなされたかはわからない。想像するに、あったとしても「また言ってます〜」くらいだと思う。それは意見交換ではない。報告だ。
何に関してもそうだった。母へ言うと「お父さんに聞いてみなさい」父へ聞くと「お母さんに言いなさい」この堂々めぐりだった。そして最後には、お金がないからとお金の問題として片付けられた。
そんな両親の元で私は育った。