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素直になりたい

 人を信じるって実はものすごく難しいことなのだと思う。人にかけてほしい言葉をかけてもらった時、嬉しい言葉を貰った時、私はどうしてもその言葉の裏を疑ってしまう。素直に受け止めていいものか、考えてしまう。

 君が幸せならそれでいい。いつもそう言ってくれる私の友人は、どこまでも、誰に対しても優しい人だ。絶対に否定したりしないし、無理に踏み込まずちゃんと寄り添ってくれる。そんな友人に、私は何度も救われてきた。今の夢を見つけられたのも、その人がいてくれたからだと思う。
 だけど心のどこかで、どうしてこんな風に言ってくれるのだろう、本当にそう思ってくれているのだろうかと、疑ってしまう自分がいる。素直に受け止めてられない、信じられない自分がいる。
 きっと私のことを想って、真っ直ぐにかけてくれた言葉だ。多少の嘘があったとしても、それが優しさであることは間違いない。嬉しいのに、素直に信じられない。友人にも申し訳なくて、そんな自分が許せない。本当は、素直に「ありがとう」と言いたいのに、その声が出ない。

 そう考えると、一番表裏がない言葉は愚痴や悪口のような気がする。それは紛れもなく、その人が思う本心だからだ。しかし、冷たい言葉はそれ自体が刃となり、人を直接に傷つけてしまう。優しさというヴェールに包まれた刃物に傷つけられた傷とはまったく違う傷をつけてしまう。

 どんなに疑ってしまっても、信じられなくても、その言葉が嬉しいと感じたことは事実である。嬉しいと思うからこそ、本心なのだろうかと不安になってしまう。心からの言葉であってほしいと、そう願ってしまう。素直に受け止められないのは、きっと口だけの言葉であることが怖いからだ。心からの言葉であって欲しいと、そう願うからだ。

 簡単に信じることは出来ないかもしれない。しかし、たとえ嘘であったとしても、その言葉で励まされ、救われたことは事実である。「嘘でも嬉しい」という言葉は、きっとこういう時に使うのだろう。誰かの言葉で嬉しいと思うことができたのだとしたら、その気持ちだけは素直に受け止められるようになりたい。たとえ嘘だったとしても、私はそれで救われたんだと、その人に「ありがとう」と伝えられるようになりたい。

 もし沢山のことが 作り物だとしても
 僕らの感じる痛みや 想いは真実だから

Curtain Call/清水翔太

 本当にこの歌詞の通りだと思う。たとえその言葉が本心でない嘘であったとしても、私がそれに対して感じた喜びや悲しみは、紛れもなく真実である。たとえ言葉が嘘であったとしてもいい、信じられなくてもいいじゃないか。嘘であったとしても、その言葉で私はこう感じたのだから。無責任かもしれないが、相手を傷つけてしまうかもしれないが、私はそう思った。
 自分の気持ちに嘘をつかず、嬉しいと思った時や、助けてもらった時は、その言葉が真実かどうかなんて関係なく、素直に「ありがとう」を伝えられるようになりたい。
そしていつかは、その人の言葉を心から信じられるようになれたらいいなと願っている。

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