たまには静かに怒りたくなる時もある。

人から言われた善し悪しの判断基準が、単にその制作者のことを知っているかと、その人との親密度で裏付けられた愛着でしかないと解ってしまった時、それでもその人のことを信じ続けられるのかは少し難しい問題である、と思う。

人に評価されるのも、人を評価するのも嫌いだと言っておきながら
自分はどうしようもなく人の評価に敏感である。それも嫌。

綺麗事だと言われるかもしれないが、綺麗事がほんとうになれば綺麗事ではなくなるではないか、とも思う。
手が届かないものやできないことの言い訳として綺麗事という言葉を引き合いに出されるのは嫌だ。

やりたいことや志を求めて来るのに、その人は別に私の意見を聞きたいのではなく、その人が求めている答えをちょうどいいタイミングと塩梅で投げ返して欲しいだけで。

私が主語にしたいこととあなたが主語にしていることは明確に違う。
違うことはいいことなのに、それで自分の考えが否定されるのは悲しい。

利益は価値に直結しない。
でも霞を食べているだけで生きては行けない。

もっと自分の好きなことに素直でありたい。
とても幼稚な考え方なんだろうか。

自分も知らず知らずのうちに自分の正義感だとか価値観だとかを他人に押し付けている瞬間があるのだろうから、おあいこなんじゃない?とかも思うけれど…