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深淵をのぞく時深淵もまたこちらをのぞいている

花はただそこに咲いているだけで美しい。

そう思って生きてきた二十数年だったが、ある商業施設の花壇に物凄い密度でぎゅうぎゅうに植えられた花たちを見て、美しいという気持ちより
く…苦しい…という気持ちが勝った。

しかも、密度だけではなく、取り合わせもよろしくなかった。
個性が強く、彩度が高く、その上、主役張れますけど?みたいな顔してるお花ばかりが選りすぐられていて、花壇全体に澱んだ空気が漂っていた。

とっても一生懸命なのだけど、その一生懸命さが裏目に出ている救いようの無さに居た堪れなくなって離れた。
群ではなく、それぞれが一輪ずつ別の場所に置かれていたとしたら、
美しく在れたのだろうか。

美しいと初めから決めつけていて、美しいものというフィルターを通して見聞きしているものたち。
例えば草花などの自然や月、生物、名作と言われるプロダクトや絵画、クラシック音楽などなど。

花は美しいものだという先入観で見たからあの花壇に違和感を覚えたのか。その先入観がなかったら、私はそのまま何も感じることなく通り過ぎていたのだろうか。

誰だったかに、これは美しいよね、これは美しいものだ、と教えてもらったものたち。
疑いもなく美しいと思って見ているものは、そう見ようとしているから美しいものとして認識しているのか、とかこういう時に考えたりする。

教育により感じられるようになった美と本能的に感じ取ってきた美。

今ではもうごちゃ混ぜになってしまっていて、私が今、美しいと思ったのは教育によるものか、本能によるものかの判断に迷うことがある。
美しい、と感じているのならばそのどちらかなんて気にしなくても良いではないかという気もするのだけれど、いつか、本能的に感じ取ってきた美にこだわって何かをデザインしてみたいという気持ちは奥の方にあって、意識的に分けてみるのもいいのかなと思っている。

朧げな記憶を頑張って遡ってみると、美しいと認識していたものは
開け放した大窓から入ってくるゆるやかな風と、ふわりふわりと踊るレースカーテンから不規則にキラキラとこぼれてくる光。
その風にのって流れてくるあたためられた芝生とやわらかい土の香り。
石の持つ複雑な色彩と模様、うすら青い空の色。
ふわふわの牛のぬいぐるみの中に入っていた、透き通ったころころという鈴の音。

美しいというより、興味を惹かれたものと形容するのが正しいのかもしれない。言葉すら知らなかった自分が果たしてそれらを「美」と近い感覚で捉えられていたのかどうかはとても怪しいし、どう認識していたかなんて、まっさらな気持ちに戻って思い返すことは本当に難しい。というか不可能に近い。

どれもしっかりととらえることができるものではなくて、不安定でコントロールしきれない現象や、視覚だけで捉えられないものが興味の対象であったことは確かなのかもしれない。もしかしたら、だから空間をフィールドに選んでるのかとか考えたくなるけれど、それは自分が正しい道を選択できているという安心感を得たい為の無理矢理な答え合わせでしかない。

逆に、教育により美しいと認識できるようになったものは割合はっきりと覚えている。
プロダクトデザインや建築のデザイン、彫刻などの立体物の造形に関してである。

大きな橋を越えなければ文化も物も揃わないような町にかっこいい近代的な建築やシュッとしたデザインのプロダクトがあるわけもなく、彫刻に至っては小学校に設置されていた二宮金次郎像と中学校にいた潮音という女性のブロンズ像くらいしか見たことがなかった。というかプロダクト、建築、彫刻という言葉は恥ずかしながら、画塾行き始めた高3で少し、大学入ってからちゃんと認識した。震えるほど無知…

立体の美がわからなすぎて、画塾でプロダクトを専攻しようとしている人の立体作品が講評で評価されているのを見て、これが立体で言う美なのか…?と言うところから入り、大学になんとか入ってからは図書館のプロダクト、建築関係の本に手当たり次第目を通していったことで、今まで見てきた雑貨や家電、家具、建物とは明確に違う、「プロダクト」「建築」の美しさの概念をやっとインストールできたような気がした。
シュッとした美しさだけではない、民藝や手仕事に宿るプリミティブな美についても、講義や展覧会、先生たちとの雑談でインプットしていった、後天的に獲得した美の概念だ。

獲得した概念によって美しいと思えるものが増えることは豊かであるなと思う。感覚が理解に追いついて溶け込んでいく順番もあるのだな、と思ったことを覚えている。ただ、完全に溶け込んでしまった今、自分の中の大きな「美」という器に分類されるものたちの小分類に迷い、ラベルをつけるのも野暮な話なのか?でも、どうして美しいと思ったのか?その理由が分類になるのか?というような問いが頭の隅っこの方でゴニョゴニョと繰り返されている。

あんまり拗らせるとドツボにハマって抜けられなくなりそうだ。
というか「美」なんていう底なしの怪物みたいな命題を考えるには人の一生は短すぎるというか全然足らない足りるはずがない。

あーでも何にも考えずにこれは良い、いいぞ!と思えるようなものに焦がれているし、そういうものを作りたい欲は苦しみとセットでぺったりくっついてくるのよねーーー!たすけて