停止した未来像から創造する未来は魅力的か
ロボットが当たり前のように家事や接客をし、街には有機的な造形のメタリックな建築がそびえ立ち、空には車とも飛行機とも似つかないモビリティがびゅんびゅん飛び回る…
「未来」と聞いて思い浮かぶのは、こんなイメージではないでしょうか。
画像検索でも「未来 イメージ」「future world」などで検索して出てくるのはそんな画像ばかり。
夢見た「21世紀」に対する幻想が固定概念として頭にこびりついている。信じて疑わない、先進的でスマートでかっこいい、効率化された未来。無機質な未来。SF映画で見るような未来。ドラえもんやアトムで夢見た世界。この概念化された未来は共通の夢となっている。そして、その夢から覚めることができないでいる。
幼い頃、概念化された「未来像」は全く魅力的に映らなかった。この無機質に見える空間の何が良くて、何がすごいのだろうと。その当時、テクノロジーなんて何ひとつわからなかった私の目には、色彩が失われた、つまらない世界にしか映っていなかったのだと思う。
色々と勉強をして、大人と呼ばれる年齢になって、分かってくるのかと思ったら、そうでもない。だんだんと疑うようになった。誰かに示された未来、描かれた未来に向かって進んでいけばいいという、目的地が決まっていることの安心感のようなものを手放したくないがために、未来は固定概念化されたのではないだろうかと。
思えば、10年前に思い描いていた未来像と、現在「未来」として共有されているものにあまり変わりはない気がしている。その間にスマートフォンができたり、とてつもなく複雑でかっこいい建物が建ったり、AIができて活用されたりと、着実に世界は共通の「未来」へと近づいていっている。
しかし、その「未来」を達成することが目的になってしまってはいないだろうか。「未来」を達成した後の世界で生きることは果たして幸せなのだろうか、豊かであるのだろうか。リアルな感情に寄り添った未来は描かれているのだろうか。
未来のイメージが更新されず、停止しているように感じる。未来はもっと多様であってもいいはずなのに。
昨今の社会の変化もありつつ、理想とする未来をうんうんと考えている。
自分の中でも停止していた「未来像」を更新するために。もっと色彩に溢れていて、ゆったりしていたらいいな、なんて思い描きながら。
都市に対する憧れが薄く、懐古主義的なところがあるから、こう考えてしまうのかもしれない。私もまた、自分からは見ることのできないフレーム(固定概念)から抜け出して物事を捉えることに難儀している。