日本の弥生は消えた長江文明
こんにちは、今回は「私が妄想した日本古代史 」の中で、「水耕稲作の伝来」に関して、理系的な視点も交えて謎を解いてみたいと思います。
先の記事では、以下のように記しました。これ、弥生時代の始まりに関する謎を解いてみた自説です。
誤った弥生のイメージ
弥生時代の始まりに関し、何が謎だったのかを説明するために、まずは学校教育で教わった歴史から私が抱いていた、誤った弥生時代のイメージを示します。おそらく、似たようなイメージを持っている方も多いのではないかと思います。
古代史に興味を持つまで、殆ど気にしていなかったのですが、これには以下のような誤った認識が隠れており、差別を生みかねないとんでもない誤解でした。(気分を害された方、大変にすみません)
縄文人は、原始人のような野蛮な人々だった?
日本は大陸から朝鮮半島経由で稲作や文明を学んだ?
弥生人が(ほぼ)日本全体に広がり、縄文人を北海道と沖縄に追いやった?
結論から言うと、縄文の人々は世界とは異なる進化をしていた文化人で、原始人とは全く異なります。他の世界の文明人と比べて、どちらが優れている/劣っているということはなく、異なる方向に進化をしていたんです。そして、日本に水耕稲作が伝来したのは上海あたりの長江下流域からで、むしろ朝鮮半島へ水耕稲作を伝えたのが日本だと思われます。ただし、青銅器や鉄器は主に朝鮮半島経由で伝来し、人と人が争う文化が伝来しました。また、これらの水耕稲作や青銅器や鉄器を持ち込んだ渡来人は、縄文の人々と平和裏に融合して混血していったと思われ、北海道や沖縄まではあまり到達しなかっただけです。だから縄文人・弥生人と言う区別はなく、地域ごとに混血度合いの差異はありますが、民族が違うわけではありません。
中国の先史文化
先の記事で「歴史は化学反応だ!」と書きましたが、どうやら日本の弥生文化は中国の先史文化の変化を受けての化学反応だったようです。
日本の縄文時代の始まりから約7500年たったBC7000年頃、中国でもようやく黄河の中・下流域で黄河文明が始まりました。さらにBC6000年頃からは長江(揚子江)の流域でも長江文明が始まりました。
北の黄河文明では雑穀(あわ・きび)や麦の農耕が始まり、高温で焼いた陶器も発明されています。史記によると、黄河文明の中からBC2000年頃に「夏」という最初の王朝が誕生したとされていますが、考古学的に確認されていません。確実なのはBC1600年頃からの「殷(商)」という王朝で、甲骨占卜という占いを行う祭祀の文化を持ち、その亀甲の上に漢字の源とされる甲骨文字を刻んで用いていたことがわかっています。殷王は専制的な君主であっただけでなく、最高位のシャーマンでもあり、大量の生贄を捧げる鬼神崇拝を行っていたようです。これに対し、魏志倭人伝では卑弥呼も骨卜という占いによる鬼道を行うシャーマンだと記されており、殷の影響が伺えます。
南の長江文明では水耕稲作が始まり、高床式の建物が発明されています。長江文明では文字を使っておらず、史記にも記載がないため、殆どわかっていません。しかし近年に稲のDNAを調査した結果、日本のジャポニカ米が長江中流域の稲の子孫であることが判明しており、水耕稲作や高床式の建物も共通していることから、日本の弥生文化こそが長江文明を継承したものだと捉えて良いと思います。
殷は次第に周辺地域を征服しています。BC1400年頃には長江中流域が殷に滅ぼされ、長江文明は今の上海付近の長江河口に縮小していたようです。その後、殷王の圧政に反乱が起き、BC1000年頃に殷王朝が滅亡して周(西周)が建国され、連動して長江文明も消滅しました。
日本に弥生文化が伝来したのが丁度この頃で、DNAのY染色体ハプログループの分析でも、長江文明の担い手だと見られるO1bから分岐したO1b2が、この頃に日本に弥生文化を持ち込んだ渡来人だと考えられています。おそらく、殷王朝の滅亡に伴う混乱で、長江河口の長江文明の地域にも難民・移民が押し寄せ、玉突きで長江河口で水耕稲作を行っていたO1b1が香港からベトナム方面の大陸南岸に移住し、水耕稲作と遠洋航海の双方を行っていたO1b2が日本の九州へ移住したのだと思います。これは長江河口から九州への直接の移住で、朝鮮半島は経由していません。
つまり、日本の弥生文化は消えた長江文明なのです。