現在の日本人も継承している縄文文化
日本の縄文は世界最古の文明?
センセーショナルな小見出しを付けましたが、これ、調べてみると全く馬鹿馬鹿しい論争で、「文明とは何か?」という用語の定義が人によって違うだけだということがわかりました。
辞書によると、文明とは「人知が進んで世の中が開け、精神的、物質的に生活が豊かになった状態」と定義されています。何をもって「豊か」と捉えるかは価値観や宗教感に依存するため、この定義だと文明とは人によって異なる曖昧な用語になります。理系的な視点から捉えると、文明とは、石器時代から衣食住などの生態が不連続的に大きく変わった、生物としての人類の「相転移」だと定義するのが良いと思います。
その理系的な定義では、先の記事に記した通り、日本の縄文は、石器時代から衣食住の全ての生態が不連続的に大きく変わった相転移で、世界四大文明などよりも約1万年も前に日本独自に起きた人類の偉大な進化ですので、縄文は圧倒的に世界最古の文明だと誇って良いと思います。他の動物や原始人とは明らかに一線を画し、現代人へ続く生態への劇的な進化です。
しかし、学術的には、文明には「効果的な食料生産、都市、職業と階級の分化、冶金術、文字」などの要素が必要という定義が主流なようで、その定義では日本の縄文は文明には全く該当しません。だから歴史学では、縄文は文明ではないと定義されている様です。西欧の学者が西欧の価値観で定めた文明の定義に固執し、日本の縄文は文明ではないと否定するのは、いかにも文系の学問ですね。理系から見ると非科学的で客観性に欠けた偏見だと思います。
この理系的な感覚と文系の学術的な定義の相違を見て、私は、今の日本文化が世界の人々とは異なると言われる根本的な価値観の相違もそこにあり、それが縄文文化から継承されていることに気が付きました。今回は、このことを詳しく書いていこうと思います。
世界の文明と日本の縄文の差異
まず、考古学的には「効果的な食料生産」、つまり大規模な農耕の始まりが文明の1要素とされています。しかし、縄文時代の日本は偶然にも自然から採取できる堅果類や貝や魚が豊富だったので、大規模な農耕を行わなくても石器時代を脱した。だから、人為的に自然を加工して農地にすることなく、自然と共生していたんです。
次に、考古学的には「都市」が文明の1要素とされています。ここで都市とは、アニメの「進撃の巨人」に出てくるような、城壁に囲まれた都市国家を指します。なぜ、都市国家が形成されたかと言うと、城壁で囲わないと他の地域から食料の強奪などの侵略を受けるからで、正に進撃の巨人の世界観です。しかし、縄文時代の日本では、集落を城壁などでは全く囲っていない。人骨を見ても戦闘で怪我をした痕跡が殆どなく、石器を見ても人を襲うような武具はありません。つまり、都市国家を形成しなくても、文化的で平和な暮らしを1万年以上も続けていたんです。
次に、考古学的には「職業と階級の分化」も文明の1要素とされています。これは集団農業が発達して人口が増えると、支配者と労働者の階級に分かれて階層的な社会を形成した方が効率的なために起きた変化です。しかし、縄文時代の日本では、多くは人口15-30人程度の小さな集落で、皆が平等に仕事を分担して食料を分け合うフラットな社会だった模様です。集団農業は行っていないので、支配者と労働者の階級に分かれる必要が無かったんでしょうね。
次に、考古学的には「冶金術」も文明の1要素とされています。これは、具体的には鉄の農具や武具を指します。つまり、世界では大規模な農業や都市間の戦争の為に冶金術が生まれたのでしょうが、縄文時代の日本では大規模な農業も戦争も行っていないので、冶金術は生まれていません。
そして、考古学的には「文字」も文明の1要素とされています。これは確かに偉大な変化で、世界では文字の誕生によって多くの人に知識や学問が共有・継承され、技術が劇的な速度で進化しました。しかし、縄文には生活の中で文字を用いた形跡がありません。(ペトログリフに関しては、日常生活の中で使用された形跡がないため、ここでは例外として除外させて下さい)これでは、縄文は「文明ではない」と見なすのも一理あります。
これは長い間、私にも大きな謎でした。縄文の人も現代の我々と同じ脳の容量を持っており、口頭では高度な会話を行っていたはずですし、縄文の土偶や土版に絵画(線刻画)を描く技術は持っていました。定住して食料にも困ってなかったので、芸術的な土器を作るなどの時間的なゆとりも十分にありました。だから、あと一歩で文字は生み出せたはずなのに、1万年以上もの間、縄文の人は文字を発明しなかったのです。理系的な感覚では、同じような環境で同程度の人口があったら、確率的に同程度の年月の間に誰かが文字を発明するはずで、なのに世界四大文明よりも2~3倍長い1万年以上もの間、縄文に文字が生まれなかったのは不思議でなりません。世界よりも約5千年前に磨製石器や土器による煮炊きや定住生活などを発明して文化的な生活を送っていた縄文の人が、世界四大文明の地域の人よりも愚かだったはずもなく、縄文の生活の中では文字の必要性がなかったのだとしか思えません。
贈答文化 v.s. 強奪文化
この謎を解く仮説を思いついたのは、考古学者でアイヌ研究者としても著名な瀬川拓郎氏の「アイヌと縄文」という書籍を読んだ時でした。
アイヌという言葉の定義は曖昧で政治問題にもなっていますが、瀬川氏は縄文時代から北海道に居住していた縄文文化を継承する人々のことをアイヌとし、古墳時代以降にサハリンから南下してきたオホーツク人とは区別しています。縄文時代まではアイヌは本州や九州や四国に住む人々と同じ民族で、同じ文化だったのに、気候が異なるために弥生の稲作文化を受け入れず、北海道独自の続縄文時代から擦文時代へと、縄文文化を継承しながら日本の他の地域とは異なる歴史を歩んできた人々のことです。
本州以西では、弥生時代や古墳時代に中国や半島からの渡来人との混血が多く起きていますが、アイヌはこれらとは殆ど混血していません。
アイヌは古代から江戸時代に至るまで本州や北東アジアの人々と交易を行っていましたが、その交易において物々交換も金銭との交換も拒み続け、全て「贈り物」として同時には絶対に見返りを受け取らないスタイルに拘っていました。アイヌ同士でも、物のやり取りは全て贈り物で、物々交換も金銭との交換も行いまぜん。
これ、現在の日本人も受けついでいる「贈答文化」の原形だと見られ、相手に贈り物をすると、いつかは相手から贈り物を貰えるという、相互の助け合いの精神です。それ以上に、物々交換や金銭との交換を忌み嫌っていたんです。今でも、結婚式ではご祝儀にて金銭をいただき、食事代や参加費は請求しない文化がありますが、これも縄文文化の名残りでしょう。あからさまに金額を提示して費用を請求することを忌み嫌い、贈り物として任意の金額を受け取るんです。ご祝儀を「お心づけ」と呼ぶのが、正にこの思想でしょう。
私は、縄文時代になぜ文字が必要なかったのかも、この「贈答文化」に由来したものだと推測しています。奈良時代の遺跡などから出土する木簡には、報告・発注などの記録や、出納の帳簿、役人の勤務記録などが記載されていることが大半です。これらは、任務に対する報告、発注に対する納品、入出金に対する残額、勤務記録に対する給与支払いなど、多くが交換の契約を記録したものです。このことから、人類が文字を発明したのは、物や労働の交換などの契約を行う際に、契約不履行などの紛争が多発したため、貸し借りの状態を形として記録する必要に迫られたのが動機ではないかと考えました。これに対し、縄文の人々は見返りを約束しない贈答文化だったため、相互の貸し借りの状態など存在せず、文字など必要なかったんです。心情的には貸借の意識はあったでしょうが、贈り物を文字として記録に残して見返りを要求するなど忌み嫌われる行為だったんでしょう。
縄文の贈答文化は、自然から堅果類や貝や魚などを採取する、自然との共生から生まれた思想ではないかと思います。自然(精霊)は、人間が何かを行った見返りではなく、贈り物として食料を与えてくれます。人間は自然(精霊)へ感謝の心を贈ります。自然崇拝の信仰です。
時には、干ばつや日照りなどで食料が枯渇しますが、それは人間から自然(精霊)への「お心づけ」が足りなかったと考えたのでしょう。それを防ぐために、自然崇拝の祭祀を熱心に行います。どれだけ祭祀を行ったら、どれだけ食料が得られるなどの契約はありません。
こうして生まれた贈答文化は、自然(精霊)と人間の間だけでなく、人と人で労働を分担する際にも踏襲され、「階級」などない助け合いの社会が維持できます。集落間でも贈答し合うので、城壁で囲んだ「都市」も生まれません。相互の貸し借りがないので「文字」も必要ありません。進化が遅れていたのではなく、世界よりも約1万年前にその後1万年以上も平和が続く文化的な人類に進化していたんです。
逆に考えると、表現は良くありませんが、世界の他地域の人々は気を抜くと強奪される「強奪文化」なため、城壁や身分や文字などの「文明の要素」が必須だったんです。強奪文化の価値観から見ると、日本の縄文などお花畑で暮らしていた愚かな原始人でしかなく、文明には全く該当しません。地勢的に陸続きで異民族と接する大陸なので、こう考えるのも止むをえません。島国の日本が特殊過ぎたんです。
これ、現在の日本人も継承している、世界の人々とは大きく異なる価値観の相違だと思いませんか? 性善説と性悪説のような根本的な価値観の相違で、これが縄文文化なんです。
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