見える聞こえる崩壊の先世界
どうも、理学療法のことを書かない理学療法士のツネです。
見えるが当たり前。聞こえるが当たり前。
生活に慣れ過ぎた私たちはそんな世界が崩壊なんてするはずがないと思い、崩壊した世界を想像できない。
90代 女性
尿路感染症にて入院
既往歴
両目失明 高度難聴
認知症(程度は不明) 寝たきり
スタッフ「〇〇さん、お風呂に行きましょう」
声をかけても無反応。
そっと肩をタッチしたその瞬間、
「あぁぁぁぁぁぁぁ!!やめてぇぇぇぇぇぇ!!」
病院中に響き渡る声に思わず振り返る。
ある日レントゲン撮影が必要となりストレッチャーに乗り換えた時、手に光る指輪を取り外そうとした時も、
「やめてぇぇぇぇ!返してぇぇぇ!・・・うぇぇぇぇーん。」
泣きじゃくる姿のままレントゲン室まで運ばれる患者様。
送迎する放射線技師もタジタジ。
(その後、指輪をどうしたかはわかりませんが…)
病院に入院するまではどのように支援を受けて生活をしていたんでしょう。支援を受ける側、支援をする側との関係性を考えずにはいられません。
・食事を食べないと体の全体的な栄養を損ないます。
・衣類を着替えないと衛生が保てません。
・排泄を済まさないと菌が繁殖します。
・入浴をしないと清潔を保てません。
・姿勢を常に変えないと筋がこわばり固まります。
自分の意思で「動く・休む」を選択できる間は特に問題は起こりませんが、自分の意思で「動く」を選択できなくなった場合、先にふれた生活行為は破綻します。
介護施設は、自分で「動く」を選択できなくなった方の生活行為を本人に代わって規律的に提供するために日夜努力されているものであると捉えています。
その際に、「見えない」「聞こえない」という状況への理解が求められますがこれはそんなに簡単なことではないでしょう。医療者・介護者は病気の知識や生活行為への支援方法など、すべてにおいてプロフェッショナルでありたいとは思いますが、未体験分野への理解は並大抵の努力では叶わないように思います。
この先自分の身に何かがあった時、見えるが当たり前、聞こえるが当たり前の世界が作ったルールで生きていく必要があることを自覚することに恐ろしさを感じざるを得ない状態です。
見える聞こえる側は何が出来るでしょうか。
見えず聞こえず側は何が出来るでしょうか。
安堵させてあげたいし安堵したいなぁ。