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「村上春樹のせいで」のように堂々と好きを言えたらどんなに幸せか

これはとても個人的な話なんだけど、「1Q84」以降、村上春樹とはとんと離れてしまった。今では新作が出ても、今年の新語流行語大賞はなんだろ程度の関心しかなくなってしまっている。

初期中期の作品は、世界中のジャングルの虎が溶けてバターになってしまうぐらい、好きだったというのに。
それでもあの文体の影響力は、25メートルプール1杯分ばかりのビールと床いっぱい厚さ5センチのピーナツの殻ほどあって、はかりしれなく大きく深い。

そんな村上春樹だけど、すれ違う急行電車の網棚に残されたスポーツ新聞の一面程度には気になるときもある。やれやれ。

とまあ、拙い村上春樹遊びはここまでとして。

「村上春樹のせいで」は、韓国の作家イム・キョンソンの、村上春樹LOVE満載の一冊です。

イム・キョンソンさんは、日本の学校〜在日コリアンのための民族学校〜に通っていた十五歳のとき、偶然手にした「ノルウェイの森」を通じて村上春樹と出会いました。


まえがきでこう書いています。

(村上春樹の小説に出会って)それから長い歳月が流れた。その間、私は大学に行って恋をして、大学院で勉強するふりをして、職場で人間と仕事を知り、一人の男に出会って愛を誓い、今は一人の女の子の母親であり、ものを書く作家になっている。その間に起きた無数の出来事も、今ではもう陽炎のようにぼんやりとしている。
それでもはっきりと覚えているのは、その日々の時には悲しく、つらく、嬉しく、息の詰まるようなすべての瞬間を、村上春樹の文章に慰められ、支えられながらも生きてきたという事実だ。

「村上春樹のせいで」

膨大な村上作品やエッセイ、インタビュー、雑誌記事、その他村上春樹について書かれた評論や研究本をもとに、村上春樹自身の、教師だった両親の抑圧、妻陽子との出会いと結婚生活、ジャズバー経営時代のエピソード、作家になる経緯、文壇との距離、海外作家との交流、マラソンなど肉体への興味などが、まるで短編小説かのようなイム氏の文章で綴られています。


そして小説を書くということに関しては、(実際のインタビューを基にイム・キョンソン氏が作成したという)村上春樹との仮想インタビューから知ることができます。とても興味深い。


おそらくこれらは私なんかよりももっと熱心な村上春樹ファン(ハルキスト)ならば知っていることばかりだろうけれど、他者の文章を通じて読むとまた味わいが異なります。


この本にはタイトルに並んでひとつの言葉が添えられています。

【どこまでも自分のスタイルで生きていくこと】


韓国で「村上春樹さんが最愛の作家だ」と言うのはちょっとした勇気がいる、とイムさんは書いています。
歴史と政治における日韓関係の難しさがあるからです。


だからこそ、序文にあるこんな文章が輝いてみえてくるのです。

この本に込められているものは、本当に大切で意味のあるものを丁寧に扱おうとする謙虚な心に似ているはずだ。
(中略)
なぜ作家村上春樹について書いたのかと誰かに尋ねられたとしたら、私は「ただそうしなければならなかったから、そして、どうしてもそうしたかったから」と答えるだろう。大袈裟に聞こえるかもしれないが、これは私の人生の必然的な手順だったのだ。

「村上春樹のせいで」

自分のスタイルで生きていく、ことのひとつに、好きなものを堂々と好きと言える、ということがあると思います。


興味のない者や触れたことのない者は、

「鬼滅の刃」って何がおもしろいの?
アイドルにお金や時間を費やして無駄じゃない?
釣り?あんなのただボーと座ってるだけじゃない?

などと、自分の価値観や嗜好を中心に物事をはかりがちになってしまうけれど、絶対的な好きにはそんなつぶやきをいとも簡単にはねのけるパワーがあります。
好きな事を話す瞳は、アメリカ横断道路のように見渡す限り不気味なほど真っ直ぐですから。


だけれども、好きを堂々と口にするのは時に恥ずかしい。
いい年をして、とか、趣味わる、とか思われたりしないかと、自意識ってやつが邪魔をします。あくまでも私個人の場合。

だから、My 好き好きランキングから相手に合わせた好きを選んだりの逃げ道を用意したりもして、布団に潜り込んでくる真冬の愛猫のように、自己嫌悪にまとわりつかれます。


コロナ禍ではやたら不要不急という言葉が飛び交いました。
不要不急…つまりその根底には、ちょっとだけ「好き」を我慢しましょうね、が潜んでいるのを感じました。

そんななか、公言する「好き」の種類によっては、
「こんなときに不謹慎」「今はそれどころじゃないでしょ」「◯◯な人のことも考えたらどうですか」「我慢している人もいるんだから」等々が、返ってきたりもして何かを好きになるのもひと苦労。


ある人にとっての不要は、ある人にとっては要であって、その逆もありうる。

誰かに不要だ、不急だ、なんて決められるはずもなく、個人の想いを超えたところで不要と不急を忖度しなければいけないなんてなんだか虚しい。
日々の生活から好きを引いたところに残るのが不要不急かもしれず、ただそれだけで生きていくのはちょっと淋しすぎる。
ましてや、他者から個人的な好きをとやかく言われたくはない。


みんなそれぞれの「好き」と出会い、「好き」に支えられて生きている。


そしてこんな夜は、自宅の本棚から昔の作品〜特に短編〜を引っ張り出して、読み返してみたりもする。

特に「中国行のスロウボウト」「午後の最後の芝生」「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」「納屋を焼く」「偶然の旅人」「眠り」「沈黙」あたりをね。やれやれ。

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