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教科書に載らない川端康成にも注目してみましょう

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった」
だけじゃない川端康成。

<たちの悪いいたずらはなさらないで下さいよ、眠っている女の子の口に指を入れようとなさったりすることもいけませんよ。と宿の女は江口老人に念を押した。>

川端康成「眠れる美女」

「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」と娘は言った。
そして右腕から肩をはずすと、それを左手に持って私の膝に置いた。(略)
「あ、指輪をはめておきますわ。あたしの腕ですというしるしにね。」と娘は笑顔で左手を私の腕の前にあげた。「おねがい……」>

川端康成「片腕」


ともに、今日4月16日が命日の川端康成の小説「眠れる美女」と「片腕」の書き出しですが、たった数行の文章だけでその後に続くであろう世界がぱっと広がっていくようで惚れ惚れしちゃいます。


「眠れる美女」は、全裸の若い女性に添い寝する老人の話だし、
「片腕」は女性の片腕を持ち帰りこれまた添い寝する話だし、
「みずうみ」という作品は女性のあとを追いかける男の話だし、
教科書に載らないような作品が、川端康成はホントはおもしろい。


でもってこれ、たった5行の短編、いや掌編に『化粧の天使達・花』というのがあります。(「掌の小説」)
これが憎らしいほど好きなんです。

(写真の花は我が家に飾ってあったユリであり、文中の花・曼珠沙華とは一致していません。あしからず)


私は花に疎いです。花の名前から実体が浮かびせん。(実体から名前も浮かばない)

普段まったく本を読まない人が本屋で一冊を迷うように、花の名前を知らない私は花屋で一輪を迷う。
名前と実体が一致しているのは、チューリップ、バラ、サクラ、ヒマワリ、それからカーネーションにタンポポ、ひねくり出してユリ&キクぐらいでしょうか。
心の岸辺に咲いているはずの赤いスイートピーでさえも、その姿形は謎のままです。



川端康成というと、白髪の神経質そうなおじいさんというビジュアルイメージしかないですが、10代の写真を見ると、ダルビッシュ似のイケメンで、さぞかし多くの女性を泣かせてきたんだろうなが伺えます。
この掌編も、別れ際に投げかけられた捨て台詞から生まれたのかしらと、想像しちゃいます。


過ぎ去った記憶はある時あることをきっかけにふいに蘇ってきます。
背中の爪痕は自分では見返すことはできませんが、花は時限爆弾のように一年に一回スイッチが押されるから残酷です。
路傍の花にふと足を止めてしまった時、どこかできっとほくそ笑んでいるであろう花の名の教え人を、恨んではいけません。小悪魔な企みに簡単に引っかかってしまった我の愚かさを犠牲にすれば、円満に時は過ぎさっていってくれます。

たった5行のなのに、背後にあったであろう物語が幾重にも幾層にも想像できてしまいます。
モチーフとして選んだ曼珠沙華は別名彼岸花。その花言葉は、情熱・再会・悲しい思い出・思うはあなた一人、とのこと。球根には、毒もあるそうです。恐るべし川端康成。


そんな川端康成はユーモアのセンスもあって、ノーベル文学賞発表の日にこんな俳句を詠んでいます。

【秋の野に鈴鳴らし行く人見えず】

俳句を嗜む人は、こう解釈するかもしれません。

巡礼の鈴の音が秋の野に聞こえるけれど巡礼の姿は見えない。
隠れて見えないのか、もう巡礼が見えぬ遠くへ行ってしまったのか、鈴の音だけが秋風のなかに消えては聞こえる。幻のかすかな音なのか。


それに対して川端康成はこんなこと言っています。

単なる言葉遊び。
「野に鈴」の「野」と「鈴」で、ノオベル。

それを秋の野と季節を合わせ、「鳴らし行く人は見えず」と字数を合わせただけなのよ、っていう。
(「美しい日本の私」より)


入口は「雪国」でも「伊豆の踊子」でも教科書でもいい。
そこから広がっていくのが本の楽しさ。

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