「かしこくて勇気あるこども」を願うことは自然なことなのか親のエゴなのか
生まれてくる子どもに望むこととして、元気で健康を、は当たり前として、こんなことも願うかもしれません。
「かしこくて勇気ある子ども」になって欲しいと。
親にとってのそんな願いが、あるきっかけで不安の種となり、日々のなかで、大きく膨らみ、苦しいほど心を締めつけていく。
「かしこくて勇気ある子ども」は、子を持つことへのためらいを描いたマンガです。
主人公夫婦は、妊娠がわかった日から児童書や子育て本を読み、ベビーベッドやベビーカーを買い揃え、子のいる生活に向けて夢をひとつひとつ形にしていきます。
二人の間にあるのは、明るい未来への希望だけ。ただそれだけ。
そんな日々のある日、妻は、パキスタンに暮らすひとりの少女を知ります。
少女の名は、マララ・ユスフザイ。
女性が教育を受ける権利を主張し、平和の願いを訴えた少女です。
まだ子どもなのに、未来を見据える賢さと声をあげる勇気を持っていることに感激し、二人、特に妻は、自分たちの子もマララのようにかしこくて勇気ある子どもに育ってほしいと、願うようになっていきます。
そんななか事件は起きました。
マララは、下校途中のスクールバス車内で、突然襲いかかっていた覆面の男たちに銃撃されたのです。
男たちは、スクールバスに乗り込み、大勢いる生徒たちに向かい「マララはどの子だ」と尋ね、発泡したというのです。
この事件は、妻に大きなショックを与えます。
マララは、私たちが願っていた「かしこくて勇気ある子ども」であったがために、銃撃されてしまった。
「マララはどの子だ!」と叫ぶ声に対して手を挙げる勇気を持っていたため、命を狙われてしまった。
この事件を知って以来、妻の脳裏には、「マララはどの子だ!」の声が、繰り返し浮かんでくるようになってしまったのです。
空想上の学校で、公園で、バレエ教室で、道端で、突然現れる、銃を手にした覆面の男。
「マララはどの子だ!」
「この中でいちばんかしこくて勇気ある子はどの子だ!」
かしこくて勇気ある子どもは、自ら危険を引き寄せてしまうのか。
子にそう願うということは、子を命の危険にさらす、ということ?
もしマララが、かしこくて勇気ある子でなかったなら、悲劇は起きなかった、かもしれない。
その銃口が向かう先にいるのは、かしこくて勇気あるようにと願った我が子かもしれない。
子どもに、かしこくて勇気あれと望むのは本当に正しくことなのだろうか。
かしこくて勇気ある子になりなさい。その願いがもたらすものは、銃で撃たれるかもしれないけど、殺されるかもしれないけど、ってこと?
我が家に子ども(息子)が生まれたのは1995年のことでした。
子どもの誕生は嬉しく、その成長は生きる糧でもありました。
でも同時に、このマンガのような不安は、いつも頭の片隅に根深く横たわっていました。
今も昔も変わらず、現実の世界には多くの悲劇が絶えることなくはびこっています。
息子はけっしてかしこくて勇気ある子どもではなかったけれど、学校に行く時、遊びに行く時、不安はいつも心のどこかでくすぶっていました。
息子が10歳か11歳になった2004年、Mr.Childrenが「タガタメ」という曲をリリースしました。
こんな歌詞があります。
息子の成長を見守りながらも、同時にこの歌詞にあるような「もしも」についても、ずっと考え続けてしまったのも事実です。
誕生の喜びは杞憂に優るのか。
それとも杞憂が現実味を帯びているこの世界に新たな生命を誕生させることは親のエゴなのか。
息子が30歳近くなった今でも、その疑問は消え去ることはありません。
そんなの考えすぎ、と人は言うでしょう。
でもやはり、こうした個人的なネガティブな心理の一つ一つの集まりが、子どもの誕生を望まない選択を生み出しているのは否定できないと思うのです。
戦争、災害、誹謗中傷、ヘイト、理不尽な暴力、憎悪と、毎日ニュースやネットで見かけます。
こんなにも悲しみあふれる社会に生命を送り出すことは正しいことなんだろうか。
そんな思いが毎日膨らみ続ける、この世界っていったいなんなんだろう。
このマンガのラストには、ひとつの希望を感じます。
たったひとりの「かしこくて勇気ある子ども」だけでは解決できなくとも、多くが「かしこくて勇気ある」ことを望めば、変わるかもしれない、と。
でも考えてみれば、おそらく今いる大人たちも、かつて親たちから「かしこくて勇気ある子ども」であってほしいと願われて生まれてきたはずなんだけどね。
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